いや〜、見ましたよ、「帰ってきたドラえもん」!ずっと見たかったので、ようやっと見られた、てカンジですけれども。さて、久々の文字ネタ、今回は少しカタめに、ドラえもんについて語らせて頂きます。これから書くことは誰かが既にやったネタ鴨知れません(私は見たことないですが、いかにもありそうなんで(^^;))。見たことあったら読み飛ばしてくださいませ。
 「ドラえもん」をよく読み込んだ人で、こう言う人は多い様です。「大長編より、やっぱ普通のエピソードのキュッと締まったやつの方が何倍も感動する」・・・何故でしょう?
 「ドラえもん」はみんなが知っていて、そして愛されている国民的コミック・アニメです。何故でしょう?
 その理由はのび太にある、と私は考えます。
 のび太はダメなやつです。これでもか、というくらいダメなやつです。しかしこののび太をそのダメさ故に憎んでいたり、「虫酸が走るわッ」とかいう人は結構少ないです。どうしても憎めないやつです。のび太というやつは。それは、のび太が私、そしてあなた自身だから、と言うとお分かりいただけるでしょうか。
 人間なら誰しも、劣等感と戦ったことがあるはずです。それは日本人であればなおさらです。我が日本は伝統的に言って横一線の社会、みんなと同じが偉い社会であるからです。例えば小学生の時分、国語が得意で理科がダメだったとしましょう。日本人ならこう考えるハズです。「理科がみんなより悪い、私ってばダメな人?」この種の劣等感は多くの人が小学生や中学生の時に味わうことと思います。これがアメリカとかだったならば、「キミは国語がスバラシ〜イ!ブラボーネ!」とか何とか言われ誉められることでしょう。人間一人一人違うのですから、理科が悪いといって落ち込むことはないのに、日本社会の在り方から言って、理科が悪いとみんな悪いことになる。よって日本人が劣等感を味わう機会は必然的に多くなることでしょう。いや、アメリカ式個性尊重主義が全ていいとはさらさら思ってないですけど。
 しかし幼い頃はそれで深く傷つくといったことは少ないでしょう(幼い故に後々まで残る傷を負う場合があることももちろん認めますが)。劣等意識を味わったという実感すらない人も結構いるかもしれない。そんな子供は、実は私もそうでしたが、ドラえもんを本当に理解したとは言い難いのです。
 年齢を重ねるにつれ、(日本だからということを考えにいれなくてさえ)我々は劣等感を認識する機会に多く遭遇します。そして我々は、のび太になってゆく、のです。ダメの固まり、劣等感の権化たるのび太は、正に私たちの分身なのです。いや、あなたのことは分かりませんが、自分のことは言えます。のび太は、私自身です。だからどうしても憎めないのです。自分を芯から憎み切れる人間は、劣等感に苛まれはしない。
 その時に、初めてドラえもんが理解できるのです。 ダメな自分の目の前に、突如ドラえもんが降って来たらどうするか?・・・頼ります。
 人間って多分孤独です。一人で、そして劣等感に苛まれています。そこにドラえもんが降って来たら?困ったときに助けてくれる、劣等意識を少し吹き飛ばしてくれる、ドラえもんが。私だったら頼ります。そして、のび太はよりリアルな存在として迫ってくる。ドラえもんは、いわば劣等感に疲れた人のための物語であり、そういう意味では、コロコロコミックよりビッグコミックにでも掲載した方がよろしい。
 「ドラえもんへの強烈なアンチテーゼ」として描かれた物語をご存じでしょうか。このことは確か、何かの本で作者が答えていた気がするので確かでしょう。反ドラえもんとして描かれた物語。それは「まじかる☆タルるートくん」。
 「のび太は結局ドラえもんに頼ってばかりで何もしていない」。反のび太としての本丸。本丸はタルるートに頼りつつも、最後には自分の力で脱皮し、タルるートと別れる。
 ちょっと待て、人間ってそんなにうまく出来ちゃいねーだろ。と思ってしまうのは私だけでしょうか。世の中そんなに強い人間ばかりじゃないだろ。目の前にドラえもんがいたら、頼っちゃうだろ。・・・それに・・・
 ちょっと待て。のび太はドラえもんに頼ってばっかで、何もしてなかったっけか?・・・いや違う。のび太はたまにいいとこ見せる。見せてたじゃないか。少なくとも私は幾つか記憶しているぞ。例えば名篇「さらばキー坊」。のび太の自然を愛する心、と言ったらキレイ過ぎるでしょうか。でも、キー坊との別れを決断したのび太の心意気。例えば(ハッキリタイトルを覚えてはいないが)「しずちゃんにさようなら」。自分としずかちゃんは釣り合わないと思ったのび太はしずかちゃんとの別れを決意。「飲むと嫌われる薬」を服用。それでものび太の様子がおかしいと心配するしずかちゃんに対してのび太は薬を大量に服用。結果、身体に変調をきたすが、しずかちゃんに助けられ、諌められて別れを断念します。やり方は無茶ですが、のび太は自分で考え、行動しました。しずかちゃんのためを思ってです。
 そして今回「帰ってきたドラえもん」。(これはコミックス「さようならドラえもん」「帰ってきたドラえもん」をミックスした物語だそうです)ドラえもんが心配なく帰れるように、のび太はジャイアンに向かって行きます。そして勝つ。最後に帰ってきたドラえもんを見て、ベタな結末と笑わば笑うがよい。のび太の心意気はここでも本物でした。
 のび太のやったことは些細なことです。ジャイアンはざけんじゃねえぞう程強くないし。「しずかちゃんと別れる」なんて笑っちゃうほどどうってことない決断です。キー坊にしたって、単にお別れしただけ。でも、本人にとっては大変な決断だったハズです。劣等感の権化たるのび太が、たまにですが、人から見たらどうってことないけど、大決断を自ら下し、実行する。普段はダメダメな奴だけど、ドラえもんに頼ってばっかだけど、たまにちょこっといいとこ見せる。それが、どうしようもなくいとおしいわけです。のび太は、私なのだから。本丸は私では在りえませんでした。彼は超人で、ヒーローでした。
 そう、だからこそ「ドラえもん」の醍醐味は大長編にではなく、普通の短編にあるのです。大長編ののび太は余りにヒロイックです。しかし、短編でののび太はリアルです。日本人そのものです。だからこそ「ドラえもん」はここまで愛されているのではないか、私はそう思います。
 押入のなかに誰もが一冊や二冊は持っているであろう「ドラえもん」。ちょっと引っぱり出しては見ませんか?昔は気付かなかった、自分、を見る鴨。
 最後に一言。ダメの権化、のび太は、大したことないけどちょこっといいとこあるのび太は、それ故に大切なものを獲得しています。
それは、ドラえもんという無二の親友です。
 なんて。


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