まったり。
 この分かったようで分からない、素晴らしきポリシーよ!
 今回は「おじゃる丸」について書こう。
 「おじゃる丸」は泣ける。どんなギャグめいたエピソードであろうと、胸の奥の奥をつついてくれる、何かを持っている。それを解明するのが、「おじゃる丸」に近付く、効果的な手段であろうと思う。
 この間、「でんでん伝言板」において、JIRO氏が実に興味深い発言をした。「おじゃる丸」の特筆すべき点は、「月光町」という「世界」を描き出したことである、と。
 正に的を得た発言と言うべきではないだろうかと私は思う。「世界」なのだ。「おじゃる丸」は、「世界観」を確立しているなどという生易しい表現に収まるアニメーションではない。もう、ブラウン管の向こうには、月光町という「世界」が、まったりと横たわっているのだ。
 そしてその「世界」を舞台にストーリーが展開されるわけだが、ここで注目したいのは、一話ごとに「世界」で起こった出来事を報告する、物語としての様式ではない。「世界」の有りようにこそ私は注目したいのである。
 月光町はどこかで見たような町である。そこに生活する人々も、場所も−無論アニメ的誇張が加えられているものの−何やら懐かしい。石ころみたいな、普通は見向きもされないものを愛でる小学生がいる。プリンを毎日作ってくれる母親がいる。優しいおじいさんがいる。小さな商店街があり、古びた喫茶店があり、奇妙な雑貨店がある。原っぱがあり、丘がある。テレビの各エピソードでは、その風景の一つ一つを、まったり、のんびりと、丁寧に描く。冗談まじりに人々の過去を描き、心を描く。彼らの生活を描く。そして町並みはきらきらと脈打ち出す。誰も心の底で眠らせている、懐かしい風景が、そこにはある。ああ、故郷だ、故郷だと私は思う。だから泣けてくる。これが、「おじゃる丸」の「世界」の有りようなのだ。
 では、1000年前のヘイアンチョウからやってきたやんごとなきお子さま、おじゃる丸は何者なのだろう?彼は、この懐かしい風景にあっては、遠慮無い言い方をすれば、異物である。
 おじゃる丸は触媒としての働きを果たしているように私は思う。懐かしい心の風景は、そのままでは当たり前に収まり過ぎる。そこに、おじゃる丸(あるいは小鬼トリオ)という触媒を加えるだけで、その風景がますます輝き出すように思えるのだ。彼がプリンを食べ損ねて目に涙をいっぱい溜めた時、私たちははっとする。彼が風船をふわふわものと呼び、共に遊ぶ姿を見た時、私たちは何かを思い出す。
 さて、先日映画版「おじゃる丸−約束の夏−」を見た。この種のアニメは、良識ある大人には馬鹿にされる傾向が強いが、このことに対して私は声を大にして反対する。子供向けアニメとて、彼らが無上と信じて疑おうともしない「普通の」映画に匹敵する内容を備えている。なぜなら、子供向けアニメも、大の大人が何十人も集まって頭をひねくり回して制作されるからだ。そんな真摯な創作物が、子供向けというだけで私達に何も与えないわけがない。
 話が逸れたが、映画「おじゃる丸」である。これこそ、「世界」たる「おじゃる丸」の本領を発揮した作品であった。
 夏休みというのは誰にも感慨深い。過ぎ去った昔にはもう戻れないけれど、時々懐かしく思い出すものだ。その「夏休み」をそのまま、スクリーンに転写したもの、と言えば映画「おじゃる丸」の雰囲気を感じ取っていただけるだろうか。やはりここにも「世界」だ。
 そう、私は間違いなく、スクリーンの中に懐かしいあの「夏休み」を見ていた。クライマックスももちろん良かったが、カズマ達が月光町を走り回って遊んでいるシーンに、私はグッときた。草の上を転がり回り、町の喫茶店で氷イチゴを食べ、名物婆さんの雑貨屋の前を駆け抜け、池で泳ぐ。夜は近所の子供達と花火をする。そこにかぶさってくるのはサブちゃんの歌声だ。胸が熱くなってしょうがなかった。このシーンはぜひ一度見てもらいたい。
 余り詳しく書かないことにするが、この映画のストーリーはよくある。しかしそれでも、私は感動した。この感動にはやはり、「夏休み」描写の巧みさが大きく影響した。スクリーンの上で間違いなく展開されている「夏休み」に、使い古されてしまったエピソードが乗ると、あんなにも素晴らしいものが生まれる。つくづく、映画はストーリーではない、スピリットだと感じた。
 もちろんおじゃる丸は、映画でも触媒としての役割をしっかり果たしている。彼がいなければ、この映画はつまらないものになっていたに違いない。
 映画「おじゃる丸−約束の夏−」は、DVDの発売など待たず、この夏に、大きなスクリーンで見てよかった、心からそう思える映画だった。


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