序

 2000年の7月29日から30日にかけて、三重県の鈴鹿サーキットで開催された、バイクによる「鈴鹿八時間耐久ロードレース」(八耐)を観戦してきた。これから、ささやかな観戦記をお送りしようと思う。

  鈴鹿へ

 鈴鹿の夏の風物詩といえばやはり八耐だ。私が前回出かけたのは1994年の夏だったから、もう6年の時が流れたことになる。あの年は八耐の歴史の中でもとびきり変わった年だった。初参戦の若き本命と言われた宇川徹が予選で転倒、決勝不出場となった悲劇の発生をはじめとし、決勝レース中に転倒車両からオイルが流出して赤旗中断、実質七耐となったり、終了1時間前にスプリントレースのようなトップ争いが展開されたりと、珍しいことが立て続けに起こったため、非常に印象に残っている。
 なかでも宇川の悲劇は私が観戦していたスタンドの近くで起こり、私は精神的なショックで立ち上がれない彼を目の当たりにした。この光景は今でもよく覚えている。私はそれから宇川ファンになった。彼はその後も八耐に参戦し続け、97年98年と、連続して優勝した。
 そんなドラマが今年も展開されるだろうかという期待と不安を胸に、私と、友人二人は鈴鹿へ向かって大阪を発った。自動車で府道内環状線に乗り、そこから国道163号線、24号線、25号線、1号線を経て鈴鹿市へ至るという道のりだ。
 土日は大抵そうなのだが、今回も夏の日射しの下、163号線は渋滞していた。途中のコンビニで昼食をとり、さらに先を急ぐ。予選スペシャルステージの開始は午後2時半だから、間に合うか分からない。
 25号線に乗ると先程までの渋滞が嘘のように消えた。25号線は自動車専用道路であり、信号も無い。途中の事故による渋滞を除けば、非常に快適なドライブになった。
 いよいよ鈴鹿市に入ると、バイクの姿が目立ってくる。八耐の予選日にバイクで鈴鹿市を走っているということは、鈴鹿サーキットへ向かっているに違いなかろうと当たりをつけ、地図を閉じて彼らに付いてゆくことにした。しかしそう考えて追跡したのもつかの間、彼らは小さなバイクショップの前で停車してしまったから困った。その後は看板に従って走り、何とか鈴鹿サーキットにたどり着くことが出来た。
 しかしここで終わりではない。我々には、駐車場探しという最後の大仕事が待っていた。人に駐車場の位置を聞いたりして、「P」という看板の示す土地へと飛び込んだが、そこで耳にしたのは、「二日間7000円」という非情な言葉だった。我々には金がないのだ。
 立ちつくしている(車に乗ったままだから、座りつくしている、か)我々に声をかけてきた人物がいた。
 「二日間5000円の駐車場あるよ」
 5000円!少し安くなったが、まだ高い気がする。事前調査では一日2000円が相場だったはずなのだ。
 「4000、4000円!」
 何と、モタモタしていたら1000円安くなった。こんな所でもスプリントレースが開催されているとは、恐るべし鈴鹿サーキット、である。我々の肚は決まった。二日で4000円の駐車場へと案内してもらう。そこは鋪装などされておらず砂利の多い場所だったが、広さも充分あり、なかなか良い駐車場だった。

  スペシャル・ステージ

 八耐では予選終了後、上位のバイクによって、スペシャル・ステージと呼ばれるタイムアタックが開催される。一周限りの一発勝負、しかも単独で走るので、長時間を多数で走る決勝とは全く違った様子になり、大変興奮する時間である。BGMとして、各ライダー自身が選曲した、自分のテーマソングのような曲が流れるのも楽しい。
 我々はヘアピン前のスタンドに陣取ることにした。入場券さえ買えば、指定席以外のどのスタンドに座ろうが自由だから、自分の好みのポイントを選べる。これも八耐の楽しみ方だ。ヘアピン前はコーナーリング時にライダーがぐっとスピードを落とすので、その姿をじっくり見ることができる。さらにヘアピン立ち上がり時の加速は凄まじく、一瞬タイヤが浮き上がり、どんと音を立てて路面に落ちる。この迫力といったらたまらない。また、ここは転倒などのアクシデントが発生しやすいポイントでもある。
 一時間ほどSSを観戦し、さらにサーキットをまわってみることにした。しばらく歩くと、我らが宇川徹が走る番になったようだった(彼は94年から毎年八耐に参戦している)。その時流れてきたBGMが何と「アンパンマンたいそう」。他のライダーはサザンやらモー娘。やら流行の曲を選んでいたのに、宇川は何と「アンパンマンたいそう」。だから宇川ファンはやめられない!彼は何でも自分流じゃないといられないのだ!アンパンマンたいそうの響くサーキットに爆音を轟かせて疾駆する宇川の姿が、私には眩しく映った。

  前夜祭参加せず

 この時は既に午後6時位で、前夜祭の始まる1時間半前である。前夜祭には参加するつもりだったので、まず風呂に入ろうということになったが、サーキットの天然温泉は入場制限をしており、長蛇の列が出来ていたので、この時間の入浴はあきらめた。
 その後は、とにかく水分が足りないと皆感じていたので、コンビニを求めて歩くことにした。途中に本屋があったので入ってみると、自動車関係の雑誌・書籍が大量に置いてあった。世の中にはこんなに自動車関係の本があるのだなと感心した。
 コンビニで水分を補給し、レストランで夕食をとることに決めた。相当時間が立っていたし、疲れていたので前夜祭への参加は取り止めにした。まぁ行ってもパラパラとやらを踊るだけに違いないだろう。レストランでは鶏肉を食べたが、サービスは余り良くなかった。
 食事が終わって温泉へ向かって歩き出すと、前夜祭で上がっている花火が見えた。雲に半分隠れていたが、それなりに美しい。決勝の後にも花火が上がることになっているが、それもさぞ美しかろうと思った。
 温泉の前はやはり列が出来ていた。しかし、どうやら列が無くなることもなさそうなので、覚悟を決めて並ぶことにした。30分位すると順番が回ってきたが、正直、入り口の前であれだけの人が並んでいるのだから、浴場は大変な人で、湯も汚いだろうなと考えていた。しかし実際にはそんなことはなく、浴場の人は多くない。湯もきれいなもので、気分が良かった。なるほど、入場制限をしているのはこのためかと気付いた。
 温泉を出ると、前夜祭帰りの人々の群れを逆行し、自動車の前にたどり着く。そのまま車でコンビニに向かい、水分と線香花火を購入して駐車場へ戻った。自動車の横で線香花火に火をつける。風が吹いており、絶好のコンディションとは言い難かったが、やはり線香花火は美しい。子供っぽく、皆で線香花火に願いをかけた。
 「明日は晴れますように」
 なるほど、晴れて欲しいものである。
 「明日は土砂降りになりますように」
 天の邪鬼がいる。
 「救われますように」
 なんだそれは。
 楽しい線香花火タイムも終了し、あとは決勝に備えて寝るだけだ。一人は車中で、私とあとの一人は表にシートをしいて眠ることになった。私は寝袋にもぐって眠ることにしたが、暑すぎて寝付かれない。それで寝袋を抱き枕がわりにしたら快適になった。
 しかしこの夜、午前2時過ぎから雨が降り始め、外で寝ていた二人は結局自動車の中で寝る羽目になった。狭く、暑い夜だった。

  決勝

 翌日、7時前に目を覚まし、コンビニで朝食を買って駐車場に戻ると雨が降り出した。しかし、間もなく雨もあがって日が照り出したので一安心する。いよいよ今日は決勝だ。
 この日はコントロールラインを過ぎたホームストレートと、第一コーナーから第二コーナー、そしてS字から逆バンクまでを一気に見渡せるスタンドに座る。これらのポイントは全て、激しいバトルの展開が期待できる。また、この席は見渡しが良いだけでなく中継用の大きなテレビを見ることも出来る。実況は全サーキットに流れてはいるものの、実際のところ、マシンの爆音で途切れ途切れにしか聞こえない。テレビによる先頭集団の中継は必須と言える。
 往年の名選手達の顔見世、出場ライダーによるフリー走行が終わると、いよいよ午前11時半の決勝スタートも近い。スタート十秒前からは、観客全員でカウントダウンを行う。観客とライダー達全員で、その時を創り上げる。
 そしてスタート。2000年の八耐は、序盤から周回遅れの多く出る珍しいレースとなった。先頭集団では、周回遅れのライダーに邪魔されたり、逆にライバル車を周回遅れに邪魔させたりといった形でバトルが行われている。アナウンサーはしきりに、バックマーカー(周回遅れ)をうまく利用してとか、金太郎アメのように現れるバックマーカーをどう処理するかがポイントとか喚き立てていた。同じレースに出場しているライダーでも、周回遅れになると、利用されたり、処理されるような存在になるのだなと思うと、彼らを応援したい気持ちになった。
 先頭集団では激しいバトルが繰り返されている。八耐は二人一組で、ライダーを交代しながら八時間を戦い抜くが、開始一時間程は優勝候補四組のマシンが抜きつ抜かれつの激しい先頭争いを行っており、非常に見ごたえのある時間帯であった。我らが宇川・加藤組の最初のライダーは加藤大治郎だったが、先頭集団からは少々引き離されていた。
 しばらくすると、鳴り物入りで参戦した若き天才ライダー、バレンティーノ・ロッシがヘアピンで転倒。この時ばかりは、誇張ではなくサーキット中が悲鳴に包まれた。この転倒をきっかけに、ロッシ・エドワーズ組は先頭集団から離れ、レースの中間ぐらいにコーリン・エドワーズが転倒したためにリタイア。この優勝候補は八耐から完全に姿を消した。八耐ではこういうことがまま起こる。
 それからはやはり優勝候補であった井筒・柳川組の柳川明が先頭を走っていたが、やがて思わぬ事態が発生した。一台のマシンが高速コーナーで転倒し、マシンの処理のためにペースカーが入ったのである。このマシンを駆っていたライダーは死亡し、八耐史上初めてレース中の事故によって死者が出るという惨事となった。しかし、加藤と交代して走っていた宇川はこの時に入ったペースカーのために、トップとの差を大きく詰めることとなった。宇川の疾走は、やがて15秒を追い上げ、井筒・柳川組を抜き去った!その後も宇川は止まらず、なんと井筒・柳川組に15秒の大差をつけて再び加藤と交代した。
 それからがまた凄かった。柳川と交代した井筒仁康は加藤を追い上げ、加藤とテール・トゥ・ノーズの大バトルを行うのである。加藤は何度も追い抜かれたが、その度に抜き返し、トップを守ったまま宇川と交代した。
 こうなると宇川・加藤組の有利である。やはり宇川は速い。そのままトップを守り続け、二位の井筒・柳川組と30秒以上の差をつけていった。
 しかし30秒といえば、少しピットワークに失敗でもあれば容易に逆転が可能な数字だ。勝負はまだまだ分からなかった。そうして時はじりじりと過ぎていった。
 レース終了二時間前、悲劇はやはり起きた。その直前まで、私は一時間程、疲労と日焼けの苦痛のために日陰で昼寝をしていたのだが、起きてスタンドへ帰ろうとしたその時、アナウンサーの叫び声が聞こえた。急いでスタンドへ帰ると、どうやら井筒・柳川組のマシンがS字の立ち上がりで大転倒したというのだ。私の席から、タイヤバリアに寄り掛かっているライムグリーンのマシンと、立ちつくしている井筒の姿が見えた。ボロボロになってピットへと帰って行ったマシンは、ピットクルーによって懸命の修理が試みられたが、二度とサーキットへと帰ってくることはなかった。

  ゴール

 レース終了の10秒前がやってくると、夜のとばりの中、再び全員でのカウントダウンが始まる。こうして、観客とライダーは、長かった8時間を共に分かち合うのだ。
 優勝は、宇川・加藤組だった。
 各ライダーが完全にゴールすると、観客はサーキットへの立ち入りを許される。我々も、数々の激闘と悲劇を生んだサーキットへと降り立ち、メインスタンド前の表彰台へと向かった。
 表彰台の上では、宇川と加藤が立っていた。二人はカッコ良くツナギを着て、ヘルメットを手にしていたが、宇川コールが起こると、宇川はヘルメットを観客に向かって投げた。加藤も投げ、二位と三位の選手達もヘルメットを投げた。帽子も投げた。しかし宇川はこれだけでは終わらない。何と彼は、カッコ良いキャビンのツナギを脱ぎ捨て、観客に向かって投げた。まるで人間のようにツナギが宙を舞う。宇川自身が、共に8時間を過ごしたファン達に向かって飛び込んでくるような光景だった。加藤もツナギを投げた。その後二人は、地肌とツナギの間に着用するアンダーウェアも投げ飛ばし、宇川は黒タイツ一丁のお笑い芸人のような姿に、加藤もサーファーか何だか良く分からないような格好になってしまった。それでも二人は嬉しそうだった。だが、宇川は浮かれているばかりではなかった。この八耐において初めて出た死者の冥福を祈って欲しいと、最後に観客に訴えたのが心に残った。
 そして、八耐名物と言ってよいだろう、花火の打ち上げが始まった。サーキットの広い夜空に打ちあがる花火は綺麗で、昨日遠くから見た前夜祭の花火など比べようもなかった。

 我々はへとへとになって、やってきた道のりを再び大阪へと帰った。三人とも日に焼け切っていた。私は長袖シャツにジーンズ、靴下という服装で日焼けに備えたのだが、やはり顔と、手の甲が激しく焼けた。特に鼻の頭の焼け方は酷く、ひりひりと痛み、果たしてこれはこの世の終わりかというほどに黄色い汁が染み出していた。けれどもこの痛みは、あの余りにも暑いサーキットで、ライダー達と共に8時間を耐え抜いた証だと思うと誇らしかった。



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