ボーリングが嫌いである。ボーリング好きの人にお叱りを受けることを覚悟で、その理由を述べてみたいと思う。
 理由とは単純明快である。ズバリ、格好悪いからだ。不粋と言っても良い。
 格好悪いと言っても、プロのボーリングはそうではない。(不勉強で名前は知らないが)利き手に手甲のようなものを着け、プロのボウラーが颯爽と足を踏み出してボールを投げる。すらりと伸び切った腕、そして脚。
 手を離れたボールは空気を切り裂きレーン上を走って行く。神が人間にのみその美しさを楽しむことを許した、完全な円。そして直線。二者はボーリング場で接合し、高みに昇ってゆく。その上昇が頂点に達した時、円は整然とならんだ十本のピンを狂おしいまでに蹂躙する。十本のピンが倒れ尽くしたとき、ボウラーは伸び切った腕を惜しげもなく弛緩し、一瞬の間をおいて再びその腕で天を衝くのだ。ボーリングとは、破壊の祝祭である。
 しかしこの美しき祭も、素人のプレイによって空しく壊れてしまう。
 まず格好だ。一体あのシューズというやつは誰が発明したのだろう?なぜ必ず赤と青に塗り分けられているのか?宇宙の真理でも表わしているのだろうか?さらに何ゆえあんなコッペパンの様なくるくるとした形をしているのか?仕事帰りのサラリーマンも、しどけなきいでたちを至上とする若者も、ミニスカートのうら若き乙女も、かつては若かった婦人も、皆あの赤と青に塗り分けられたくるくるの靴を履いてプレイしなければならないのだ。コーディネイトも何もあったものか。こんな不自由な話はない。あんな靴が似合うのはのび太としずかくらいである。
 そして投球フォームである。素人の投球フォームというのはプロと比べるべくもない。とことこと歩いたかと思うとちょんとボールを放すだけである。振れない腕、決まらない脚。投げたかと思うと振り返って着席する。この間が実に情けない。泣きたくなってしまう。練習して綺麗に投げる人もいるだろうと言われる人があるかも知れない。しかしそれにしたってやはりプロとは比べられない。プロは一日何十ゲームと投げ込み、やっとあのフォームを獲得するのだから。
 得点にしたって素人だと情けない。多くの人は百点から百五十点の間でうろうろし、超人的にうまい人だって素人なら二百点を超える程度だろう。倒れないピンというのは情けない。投球の後ピンが残ると、私たちも蹂躙してほしいという嘆きが聞こえてくる気がする。ましてやボールがごろごろとガーターに突っ込んだ日には、ピン達が気も狂わんばかりに泣き叫んでいる気すらするのだ。
 待っている競技者達を見ていても哀しい。妙な機械を囲んでぼけっと着席し、投球者がちょっとばかしピンを倒すだけでこの世が終ったかのように拍手をする。一段高い所に立つ投球者はまるで宴会場の生贄である。
 つまり、以上の様な理由で、私はボーリングが嫌いなのだ。正確に言うと、ボーリングを自分でやるのが嫌いだ。別に楽しんでやっている人様に素人のボーリングは格好悪いから止めろだとか、情けなくならないかと言う気はさらさらない。私にそんな権利はないし、楽しんでいる人々の気分を害するなんてそれこそ不粋である。しかし自分でやるのは極めて気が進まない。自分がそんな空しい姿を晒している様を想像すると哀しくなる。ただでさえ不粋な私である。不粋の上塗りまでしなくったてよいではないか。破壊の祝祭は、選ばれた人間のみが執り行えばよいのだ。
 考えてみれば、他のアマチュアスポーツではこんなことは決して思わない。草野球は見ていて楽しいし、草サッカーなども時には身を乗り出して見てしまう。テニスも素人がやっていたって何とも思わない。ボーリングだけだ。やって楽しいとも全く思わない。なぜボーリングなのか。
 ちなみに、数えるほどしかボーリングをやったことがない私のアベレージは100を切る。


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