いつかは人間もその発達しすぎた科学のために、かえって自分をほろぼしてしまうのではないだろうか?

 漫画「メトロポリス」はそういうフレーズから始まる。
 上質のSFエンタテインメントであると同時に、手塚治虫の問題提起とも言える「メトロポリス」。この作品に登場したミッチイが、後にアトムを生んだ、とは手塚治虫自身が述べていることである。「メトロポリス」が提出した問題を、アトムが解決した(あるいは、しようとした)、という風に言えるのかも知れない。
 漫画「メトロポリス」で、ミッチイからアトムに持ち越された問題。その解決を一つの作品において試みた作品。ひいては「手塚治虫」という大問題を、後の人間が解決を試みた作品。それが映画「メトロポリス」の一つの捉え方だと思う。

 まず、映画「メトロポリス」は、映像的に「手塚治虫」という問題を捉えなおし、我々の目前に、鮮やかに展開してくれた。例えばキャラクタ。そのシルエットは初期の手塚治虫の線が強く意識されているが、それには留まっていない。手塚治虫の丸く、躍動するような線を意識しつつも、厚みを持った手足。恐ろしいまでに書き込まれているのに、透明感のあふれる優しい姿。映画「メトロポリス」のキャラクタは、手塚治虫であって手塚治虫ではないのだ。
 アニメーションの華、動きについてもそうだ。手塚治虫のキャラクタが持つ優しさ、ナイーブさをスクリーンに写し出すと同時に、激しさ、ドライさといったものをも見事に表現している。その豊かな動きは、それだけでこの映画を見て良かったと思わせてくれる。
 評判の高いモブシーンやアクションシーンも素晴らしい。数え切れない(本当に数え切れない!)ほどの人物がひとりひとり動き回っているモブシーンは、デジタル合成技術の、アクションシーンは日本のアニメがこれまで培ってきたものの結晶である。圧巻としか言いようがない!モブもアクションも手塚作品には欠かせないものであるが、それを映像として表現しようと試みる気概。
 メトロポリスの造型も見逃せない。CGで構築された映画のメトロポリスは、原作のイメージ通り古いアメリカを思わせるが、やはりそれだけにとどまってはいない。地上部分と地下部分から構成されたそこは、原作のような華やかで光り輝く憧れの街であると同時に、退廃と危うさを秘めた街でもある。地上部分の持つ過去性と、地下部分の持つ未来性。アンバランスさが奇妙な味を生んでいる。その奇妙さを補強しているのが、メトロポリスの量感だ。隅々までCGで描かれたメトロポリスの持つ説得力はただごとではない。そして、予告編やCMでその一端を見せていたように、このアンバランスな街はクライマックスで大崩壊を起こす。構築された何もかもを破壊し尽くすこのクライマックスは、音楽とも相まって最高のシーンのひとつになっている。
 音楽!音楽も聞き逃せない。ディキシーランド・ジャズを下敷きにした、賑やかで、それなのにどこか寂し気な旋律は、作品全体にノスタルジーという効果的なスパイスを加えるのに一役買っている。
 以上の特徴は、手塚治虫の再把握、そして再展開という役割を見事に果たしている。いや、それ以上の効果を上げていると言ってよい!手塚治虫であって手塚治虫でない。そんなアプローチがまず、映像や音響から成し遂げられているのだ。

 ストーリーやキャラクタの面からも、手塚治虫という問題への、ことに漫画「メトロポリス」が、つまりミッチイというアトムが行った問題提起への解答がなされている。
 映画「メトロポリス」を考えるにあたって、アトムは外せないと思う。それは世間でも言われていることであるし、そもそも前述のとおり、原作レベルでのミッチイとアトムのつながりを手塚治虫自身が認めているからだ。
 科学の最高芸術品と言われ、時にはおのれの存在に苦悩しつつも人間とのパートナーシップを深めていったアトム。同じ科学の芸術品と言われながらアトムとは対照的に、人間と悲劇的な離別をしたミッチイ。そのミッチイの血を受け継ぎ、誕生したのが、映画「メトロポリス」のティマである。
 原作と同じく、人造人間として誕生するティマ。無垢なティマは原作と同じように人間と親しみ、翻弄され、やがて人間を憎む。ここまで、大筋の進行は変わっていない。
 もちろん細部では大幅なエピソードやキャラクタの追加・改編が行われている。原作では単純な悪党であったレッド公が、複雑な内面を持った一人の人間として描かれている。アトムへのオマージュであろうか、アトラスが登場したりもする。手塚ファンを喜ばせる趣向も多い。
 しかし、原作からの最も重大な変更がロックの登場であろう。
 少年探偵ロック・ホームとして手塚漫画に登場したロックは、やがて善悪二面を合わせ持つ、懐の深いスターとして手塚漫画に出演するようになる(蛇足だが、私が今まで読んだロック登場作品のうち、彼の一番の当たり役は「ブラック・ジャック」の「刻印」というエピソードに登場する間久部緑郎だと思う)。そのロックが、映画「メトロポリス」で実に印象深い役として出演しているのだ。
 レッド公の養子という設定のロックは、義父レッド公を崇拝しているとも言えるほど愛し、レッド公が執着するティマすら、義父を惑わせる存在であるとしてつけ狙う。外面的には冷酷な役どころだが、根底に流れるものは激しい感情である。映画に出てきたどのキャラクタより熱いと言えるかも知れない。彼の強烈な印象が、映画に一本筋を通しているのは確かだ。ロボットが重要なテーマの一つであるこの作品において、ロックが最も人間らしいキャラであるという感じがするからである。ここにロックを割り当てたセンスは、驚異的と言うほか無いと思う。
 それに対して主人公のケンイチは、これといって個性の無い存在としてスクリーンに現れる。原作でも、ケンイチという役は、キレイで欠点がない。
 だが、映画のケンイチは、冒頭からクライマックスまでの間に、変化する。
 そう、それこそが、映画「メトロポリス」を読みとく上での重要なキーであろう。
 先に、映画と原作では大筋の進行は変わらない、と書いた。だが、クライマックスからエンドにかけては劇的な変化を見せているのだ。原作の問題提起的なエンドとは、一線を画している。ミッチイを見下ろしているかのような感すらあった原作のケンイチは、何も出来ずにミッチイの「死」を見守ったケンイチは、映画では完全に消えている。ティマと出会い、ケンイチは優等生のスターから確かに脱皮している。
 ティマも、もちろんミッチイとは異なる。やり切れない「死」を迎え、問題提起を行ったミッチイ。それに対し、ティマは・・・詳しくは書かないが、「結論」を出した。原作で「もうひとりのアトム」ミッチイからアトムに出された宿題は、映画では「もうひとりのアトム」のみで解決している。
 ミッチイというロボットは、現代にとってリアルなのだ。それこそアトムよりも。苦しみ、憎み、牙を剥く機械。科学文明に対する不安ゆえ、なのかもしれない。科学に進歩的で明るいイメージを抱く人間は最早少数派だ。だからこそ、ミッチイの問題をアトムで解決することは出来ない。ミッチイはミッチイで解決すべきなのだ。だから、「さらにもうひとりの」もうひとりのアトム、ティマが誕生したのではないかと、私は思う。

 手塚治虫であって手塚治虫でない。アトムであってアトムでない。「21世紀」最初の今年、この映画が公開されたことの意義は深い。

(2001/6/20)



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