私は、誰もが納得し喜んでくれる至高の鍋料理を作る自信がある。 ―――海原 雄山

 人は、誰しも原点に還りたがる。遥かな高みを、見たこともないほど遠くを目指しながら、もといた場所をじっと見つめている。そういうものだ。
 我々は、常に前に進んできた。誰もやったことのないこと、誰も喰ったことのないものに挑戦し続けてきた。憑かれたように、生き急いできた。だが、今回は原点に還る。
 鍋を創ろうではないか。至高の鍋を。これまでに何度もやった鍋に、取り立てて珍しくもない食材をもって挑む。だが、それは誰も喰ったことのない鍋になるだろう。遥かな高みを目指しながら、原点に還る。それが我々の結論だ。

0.買い出し(至高のレシピ)
 2001年の大晦日。買い出し先発部隊として主催者ペペF、うまい王、魔人Jが黒門市場へと向かった。(知らない人のために説明しておくが、黒門市場とは関西の毒電波の根源たる大阪日本橋電気街に程近い『食の魔窟』である)彼らはここで相当に相当なものを買い込んできたのであるが、その説明は後としよう。
 会場のうまい神邸へと私が到着したのはそんな時であったから、会場にいたのはうまい神だけだった。そこで先発部隊の到着を待ち、メンタイC、えびHらと合流し、近所のスーパーへと向かう。
 近所のスーパーで買ったのはそれほどでもない食材達だ。それほどでもない食材とは極めて意味不明瞭な表現ではあるが、これまでの経緯を知ってくれている熱心な読者の方にはその意味がわかっていただけると思う。このままではそれほどでもない鍋ができるはずなのだが、もちろんその時の私はそんなことは信じていない。いくら食材が普通でも普通ではない鍋を創る。ペペFとはそういう奴だ。そもそも黒門で買ってきた謎の食材も控えている。
 その後、やさいサラダDも参加し、この鍋大会は始まった。

1.出汁、白菜
 ガスコンロと土鍋がセットされ、火が点けられた。そこに出汁が入る。無論スーパーで買ってきた普通の出汁である。その上に白菜がペペFが持ってきた白菜が入る。ざるに載ってきた白菜の量はえらく多い。Fはそれらの白菜を躊躇なく鍋に放り込んだ。多い。あっという間に土鍋が白菜で一杯になる。並の量ではない。出汁はもちろん見えず、土鍋に白菜が入っているだけに見える。だが、白菜はまだ残っているらしい。どうやら丸々一個を買い込んできて、今投入したのが半分だからだという。加減というものを知らないのだろうか。
 Fはその上からさらに「かき土手鍋の素」という出汁入りの味噌のようなものをぶっかけた。これで見た目がさっぱりわからなくなった。土鍋に白菜を積み上げ、上からめちゃくちゃに味噌をぶちまけたようなものだ。もはや他の食材が入る余地はない。今年の鍋はこれで終わった。

(2002/1/5)



メールをどうぞ:mailto:akijan@osk3.3web.ne.jp








































2.豚足
 というのはもちろん嘘だ。この鍋は長く長く続くことになるのでご安心頂きたい。
 とにかく白菜をなんとか煮上げ、ある程度消費した後、ドラマチックな食材が投入された。黒門で買ってきた豚足である。
 豚足とは豚の脚である。鍋に入れるものではないが、入れてはいけないものでもない。そんなことは問題ではなく、問題なのは形であった。ほとんど脚先丸ごとだったからだ。
 機会があれば調べていただきたい。豚足とは、子供の手首くらいの太さで20センチメートル程度の長さの肉の棒である。先は二つに割れ、そこから5センチほど離れたところにイボ状の指らしき突起が二つ付いているような形をしている。これが全体として軽く弓なりにしなっているのだ。今回用意したものは炙ってあるため、色は焦げ茶に近い。
 これが生き物みたいなのである。もっといえばピカチュウそっくりだ。ピカチュウの毛を全てむしり、身体を串刺しにして回転させながら炙ったものを想像すればよい。割れた指先が耳、イボ状の突起が前脚にあたる。うまい王などは見た瞬間ピカチュウのものまねを披露したくらいだ。ちなみに私は花とゆめ誌で連載されている「蒲田ギュウ乳販売店」に出てきた「ウシ」にそっくりだなと思ったのだが、誰も解ってくれないだろうから言わずにおいた。
 何にせよ、この豚足が六本、白菜の詰まった鍋に指側を上にして突き立てられた。両前脚をちぢこめたピカチュウが、放射状に六匹煮えている状態だ。正直言ってとても可愛い。メンタイCも豚足が可愛いくて仕方がない様子だった。巷では子娘を中心に「カワイイ」という言葉が大流行しているようであるが、この時の私とメンタイCほど「可愛い」という言葉を精確に使用していた例はそうあるまい。

3.大ピーマン
 でかいピーマンが入った。きちんと食べやすい大きさにカットされて入ったため、白菜と豚足であふれそうな鍋にオレンジ色の小さな花が咲いたようで綺麗だった。もちろんペペFはもっとでかく切れよと不満そうであった。

※本来はパプリカとか呼ばれるピーマンらしいが、スーパーのレシートに「大ピーマン」ときっちり書いてあったのでそちらを尊重する。

4.山羊
 袋に入った血まみれの肉が取り出された。何の肉かと思ったら黒門で買ってきた山羊の肉らしい。例によってペペFが洗わずにそのままぶちこめと提案したが、他のメンバーにより即座に却下された。バランスのとれたメンバーが鍋には必要だ。
 山羊の肉とは煮込まなければとても堅く、臭い。やってきた手紙を即座に食べてしまうようなせっかちな山羊さんだが、肉の調理は手間がかかるものだ。灰汁もたっぷり出るため、うまい王がせっせと灰汁取りを始めた。王も形なしである。

5.ピカチュウ
 白菜、大ピーマン、山羊の隙間にピカチュウが六匹突き立つ奇妙な鍋が出来たが、ここで魔人Jが耐え切れなくなったらしい。すでに炙られているし大丈夫だろう、とピカチュウに手を付けはじめた。Jはいつでもチャレンジャーだ。おもむろにピカチュウを掴むとそれに齧り付く。

 シャリッ!

 この世のものとは思えぬほど爽やかな音が部屋に響いた。少なくとも肉を齧る音ではない。リンゴか何かを齧ったような音だ。いや、本物のリンゴでもこんなに爽やかな音はしないだろう。TVなどで表現されているリンゴを噛んだ綺麗な音は、きっと生煮えの豚足を噛んだ時の音を流用しているに違いない。噛み跡は雪のように白かった。Jは言う。
 「あんまりうまくない」
 そらそうだ。

6.マロニーちゃん
 続いてマロニーちゃんが投入された。外国の小さな女の子をさらってきて入れたわけではない。鍋などの用途に販売されている白っぽい麺のことである。これは結構旨かった。

7.エビギョーザ
 エビギョーザは普通に旨かった。しかしそれとともにギョーザのたれが投入されたため、味噌風味のスープに若干の味のずれが生じた。

8.ピカチュウ
 ここで再びピカチュウに手をつけたのはメンタイCである。Cも得難いチャレンジャーだ。ただ、CのチャレンジはJと違い、常にパッシヴなチャレンジである。今回も「ちょっとおいしそうだな」とぼそりと言ってしまったためのチャレンジだった。強要とも言う。Cは喰う段になると、明らかに不安そうな眼を見せた。しかし、噛む。

 メリメリッ!

 今回は肉らしい音がした。
 が、人間が肉を喰っている音とは言い難い。人間が肉を喰う時の音だったら、くちゃくちゃなどというはずだからだ。こんな風に、鬼が牛を股から引き裂くような音はしない。明らかに食べごろではないように思えたが、そこはメンタイCのこと、きっちり本気で「割とうまい」と言ってくれた。さすがは犬用ハンバーグを世界で初めて喰った人間であった。

9.追加投入
 ここからは、白菜、豆腐、人参、大ピーマン、マロニーちゃん、エビギョーザなどがランダムに投入された。ピカチュウが煮えている以外はごく普通の鍋である。

10.インスタント麺
 ペペFが持ってきた謎のインスタント麺が入った。どうも外国産だったようであるが、詳細は解らない。普通のスナック麺のようであった。見た目は少々汚かったが、味は悪くなかった。しかし同時にそれ用の粉スープも入ったため、鍋の味にはさらなるずれが生じはじめていた。だが、まだ気になるほどではない。

11.にんにく
 ここでにんにくが入る。丸ごととおろし、両方だ。丸ごとが煮えるのはまだ良かったが、Fにより大量投下されたおろしが凄まじく臭い。全員翌日まで臭かったに違いなかろう。少なくとも次の日の私は丸のにんにくと同じくらい臭かった。
 そろそろピカチュウの油も充分出始めていたので、部屋の中はにんにくたっぷりのとんこつスープで売っているラーメン屋のような臭いであった。

12.ピカチュウ
 再びCがピカチュウを喰った。形が可愛いと言っていたCはどこへ行ったのか、もはやピカチュウ喰いなら日本一のCである。やっと煮え上がったのか、今度はやっとくちゃくちゃという普通の音であった。
 そして、残念ながらここで報告せねばならない。まともに煮え上がったこの頃から、ピカチュウが成長を始めたのである。可愛らしく引き締まっていたそのボディの量感が、明らかに増しはじめていた。しかも、見た目上かなり不愉快な増し方である。ピカチュウがライチュウに進化するというのでもない。単に太り過ぎただけという感じだ。もはやこいつらに「ピカチュウ」という可愛い名前は似合わない。「ビガヂュヴ」とでも呼ぶのが相応しいだろう。このビガヂュヴども、ぶくぶくと肥え太って鍋を占領しはじめていた。閉塞した今の日本を思わせるような展開に、我々は慄然とする。
 というのはやはり嘘で、単に笑い転げていただけである。

13.山羊
 忘れ去られたかのように煮えていた山羊に手を付けたのはうまい王であった。  山羊肉とは皮と肉の二層構造になっている。肉の部分はある程度早く煮え、スジ肉のような風味がするのであるが、皮が大変だと王は言う。皮はあまりにもかたく、ゴム同然のようであった。しかも見た目が爬虫類の皮を思わせて気色悪い。
 最も旨いのは肉とゴムの間に位置するゼラチン状の部分だ。ビガヂュヴの柔らかい部分にも似た食感で、山羊肉を食べるなら絶対に味わいたい部分である。
 無論こんなことを研究しても何の得にもならない。

14.イカスミ
 クラッシャーとしてのペペFが覚醒を始めた。缶詰のイカスミを投下したのだ。多少ならよかろう、と誰もが思っていたが、何を思ったかFは缶の約半分、100ml程度ものスミを入れてしまった。鍋が真っ黒に染まる。このスミはパスタ用のソースだったため、ワインやらアンチョビやらいろんなものが入っていたので、粘度がかなり高く、しかも脂っぽい。我々の鍋は、黒くどろどろとした、嫌な予感漂う鍋になりつつあった。壊滅寸前である。

15.山羊
 味の個性が強い山羊肉はイカスミの風味に負けることもなく、それなりに旨かった。

16.ビガヂュヴ
 やはり個性の強いビガヂュヴもイカスミの風味に負けておらず、割に旨かった。

 …書いていて少し情けない。

17.俯瞰
 ここで鍋の全体を見渡しておく。
 まず、それほどでもない食材である白菜や豆腐、エビギョーザ、マロニーちゃんなどが汁の中に満遍なく沈んでいる。それらの隙間を埋めているのは千切れたインスタント麺だ。さらに豚肉や鶏肉などの普通の肉も入っていた。山羊肉もところどころに浮いている。さらに大きく膨張したビガヂュヴがやかましくそのボディを主張している。
 汁は黒く、どろどろしている。ニンニクや粉スープ、ビガヂュヴの油、アンチョビ、味噌、その他食材から出た出汁が絡まって、形容し難い「濃い」味になっている。山羊の臭みも強くなり始めていた。
 しかしそれでも、この時点で食えない鍋ではなかったのだ。
 そして、ここから鍋内の環境は激変する。

18.パイン
 部屋の隅に、パイナップルを半分に切ったものが置かれていた。もちろん、全員がその用途については解っていた。ここに至り、誰ともなく問う。
 「それはやっぱり入れるのか」
 ペペFが声もなく立ち上がり、パインの上半分を鍋に突っ込んだ。これが自分の生きざまだ、と言わんばかりに。
 黒くてどろどろした海に、パインの島が浮かんでいるように見える。もちろんパインの立派な葉は付いたままだ。皮も剥いてはいない。持ち上げたらパインが丸ごと一個出てきそうな錯覚に陥る。パイン島の横には丸々と太ったビガヂュヴが寝ている。余りにのどかな風景。時々Fがパインを掴んで鍋をかき回す。
 私はその光景に魅かれ、黒い海に浮かぶどろどろしたものを食べてみる。
 そう、それは忘れもしないあの味であった。懐かしいプリント基盤の臭いが、鼻の穴を突き抜けてゆく。
 ここに至ってしまった。プリント基盤の臭い。全ての食が行き着くタネローン。ここから食材達を引き戻すことは出来ない。出来ないのだ…

19.カレー
 ペペFが動いた。まるで当然というように、ある袋を取り出す。
 書物のように二つ折りになったその袋は、カレー用スパイスのセットであった。
 そんなものを入れてどうなるものでもない、私はそう思った。これまで幾度も経験したプリント基盤の臭い。ここから食材を引き戻すことなど出来ないのだ。それでもペペFは、楽しそうにスパイスを投入した。

20.誕生
 起きないから奇跡。
 そんなことを誰が言ったのだろう。奇跡は起きるのだ。
 その時そこにあったのは、誰も経験したことのない「カレー」であった。様々な野菜、ビガヂュヴ、山羊など各種の肉、にんにく、どろどろとしたスープ、そしてパイン。カレーに必要なものは揃っていたのだ。我々の鍋に必要だったのは…ただスパイスという展開だった。スパイスの投入により、黒い海はなぜか緑っぽく染まっていた。これもまた奇跡に違いない。主は我々に至高のグリーンカレーを与え給うたのだ。
 それは、カレーとして生まれたカレーに旨さは劣っていたかもしれない。だが、余りにも多種多様な食材に揉まれたその味の奥深さは並のカレーには出せなかったはずだ。東南アジア系のカレーに近いとも言えるし、日本のカレーに近いとも言える複雑な味である。しかし…そもそもプリント基盤から鍋を引き戻した、そのことが大きな収穫であった。
 ペペFは、全て知っていたのであろうか。奇跡の演出は、すべてFによった。
 Fとカレー、他には何も要らない。

21.そして
 その晩私は早めに帰途についた。一日に用事があったからだ。酒も少し飲んでいた私は、奇跡の余韻に浸りながら歩いた。
 残った人々は、鍋をきちんとカレーにして食べたらしい。あれがカレーとしての機能をきっちり果たしたということだ。素晴らしいことである。そもそも鍋の残りが雑炊ではなくカレーとなるというのが斬新ではないか。遥かな高みを目指しながら、原点に還る。それはこういうことなのだ。

 あの晩に飲んだ酒は、普段の私なら二日酔いになるほどの量でもなかった。しかしカレーとの相互作用だったのだろうか、寝て起きた私の胃はかなりむかむかしており、朝食も喉を通らなかった。
 もちろんこのことは内緒だ。

※私は吐くまでには至らなかったが、後にペペFが吐いたということを知った。ぐでんぐでんに酔っぱらった上にオレンジジュースや牛乳までたっぷり飲んだ上で吐いたというから、最終的には深緑色に近かったあのカレーと混ざって、さぞや素晴らしい色の嘔吐物が出たことであろう。常に凄まじい企画を立案するものの、結局貧乏くじはFが担当する。今回の会で出た、「去年、あの後身体を壊した人間はいなかったのか」という質問に対し「思いっきり吐きました」と元気に手を挙げてくれたのはFだけであった。マニアックなマゾなのだろうか。何にせよ、ありがとう、F。

(2002/1/5)



メールをどうぞ:akijan@akijan.sakura.ne.jp