まったく、何だってこんなことになっちまったんだろう。
 そう呟くと、彼はまたグラスを呷った。サンタクロースになって三十年も経つ彼がこんなミスを犯すのは、もちろん初めてのことだった。
 サンタクロースが最も忙しく働く、十二月二十五日未明。時差の関係上、日本担当のサンタクロース達が行動を開始するのは、世界でもかなり早い部類に入る。彼はそんな日本のサンタクロースの一人だった。もっともここ数年は一線を退き、主に若いサンタクロースの指導を仕事の中心としていたのだが。
 ところが、引退という名の沼にほとんど片足を突っ込んでいた彼のもとに、再びトナカイを駆って欲しいという話が舞い込んできたのだ。イブとクリスマスの二日間、孫が初めて遊びに来るから今年はどうしても休ませて欲しいと、サンタクロースの一人から届けがあったのが原因で、一年限りの助っ人として白羽の矢が立ったのが、大ベテランの彼というわけだった。

 ・・・そりゃ、現場を退いてから結構経つ。しかし腕は衰えていない積もりだったさ。また彼はグラスを呷った。
 復帰を頼まれた時は、一年限りという条件であっても気が進まなかった。彼は既に引退を決意していたからだ。もう自分は充分トナカイに乗った。近頃の彼はそんな風に考えるようになっていた。
 だが、結局彼はこの夜、トナカイに曳かれた橇に乗って空の上を走っていた。
 現場に流れる独特の高揚感。頬を擦るように吹いてゆく寒風。ほとんど忘れかけていたものだ。しかし、悪くない。
 大抵のサンタクロースは、人のいない真っ暗な山の上か、賑やかな繁華街の上を走る。クリスマス前後、未明の繁華街で夜空を見上げる者などほとんどいないし、いてもほとんどが酔っ払いだからだ。彼は昔と同じように、夜の繁華街と山の上を交互に走り過ぎ、子供達の家へと向かっていた。
 子供達の部屋にそっと足を踏み入れると、彼は思わず微笑んでしまう。眠い目を必死でこじ開けて、遅くまで起きていた跡がありありと残っているからだ。電気スタンドを灯したまま眠ってしまった子。開いた絵本の上に突っ伏している子。普段着のまま床に横たわっている子を見た時には、さすがにぎょっとする。しかし皆、サンタクロースの正体を突き止めたいと願った小さな探偵達だった。
 子供達の寝顔というのはいいものだ。優しさというものに形があるのなら、きっとそれは子供の寝顔に違いないと彼は思う。彼は枕元にプレゼントを置くと、またそっと部屋を後にする。子供に声をかけることは決してしない。それが、サンタクロースだからだ。
 そんなことを繰り返しながら、彼はとうとう最後の子供の家に到着した。この家の女の子にプレゼントを届ければ、また現場からもおさらばだ。やれやれというような、それでも少し寂しいような複雑な気持ちで、彼はその少女の部屋にそっと入っていった。だが。

 「だれ?サンタ?」
 暗闇の向こうから小さな声が聞こえた時、彼は凍り付いた。まさか、まさか。ゆっくり顔をあげると、目の前に、ピンク色のパジャマを着た少女の姿があった。

 ばれたのだ。何たること。サンタクロースにとって、最低の失態だ。部屋に入る前に、気配で察するべきだった。やはり勘が鈍っていたということか。だが、だが、よりによって最後の家だ。夜も遅い。万が一にも子供が起きているなどとは思わないではないか。
 しかし呆然と立ち尽くす彼に対して少女は遠慮なく言葉をかける。
 「ね、ね、サンタさんでしょ?その赤いふく、かわいいね」
 これも失態だ。今夜の彼は、よく目立つ赤のサンタ服できっちりと身を包んでいたからだ。光学迷彩機能が付いた最新型のタイト・スーツなど着るものかと、意地など張るのではなかった。おかげで、お前さんは頑固だからなと笑っていた他のサンタ達にもう一度笑われることになってしまったではないか。ああ、俺は何て馬鹿なんだろう。
 「・・・ンタさん、ねぇ、サンタさんってばぁ!」
 少女が何か言っている。彼は我に返った。仕方がない、後のことは後のことだ。とにかく今はサンタクロースらしく振る舞わなければならない。
 「や、やぁ、メリークリスマス!サンタだよ!」
 間抜けだ。しかし、普通のサンタクロースが子供と正面から話すことなど、まず有り得ないのだ。間が抜けたセリフを吐いてしまうのも仕方がなかった。若い頃、サボらずに「非常時の対応」のレクチャーを受けておくべきだった。彼はまた後悔する。
 「今年一年、いい子にしていたからね。これがプレゼントだよ」
 そう言って彼は、脇に抱えていた包みを少女に手渡す。一年いい子にしていたというのはお愛想ではなく、調査済みのことだ。悪戯が過ぎるなど、調査結果に問題がある子供は、プレゼントのグレードが下がることになる。確か、この子の希望はピンク色のマフラーとミトンの手袋。調査結果が芳しくなければ、希望を外され赤か黄色になるところだったが、彼女の場合は希望が通っていた。
 「わ!」
 包みを開いた少女の顔がぱっと輝く。余りの失態に重く沈んでいた彼の気分が、それで少し救われた。後で山ほど始末書を書く羽目にはなるが、この顔を見られたのは得難い喜びだ。少女は早口で喋り出す。
 「ありがとう、サンタさん!ねぇ、ねぇ、サンタさん!サンタさんは・・・」
 余程嬉しかったのか、少女は瞳を大きく見開き顔を真っ赤にして話している。微笑ましいその様子を見て少し余裕が出てきた彼は、人指し指を立てると少女の顔の前にそっと差し出し、こう言った。
 「しーっ。サンタさんは帰るからね、もうおやすみ」
 「えっ、もう帰っちゃうの?」
 「ちょっと忙しいのさ」
 始末書の山が待っているから。
 心底残念そうな顔を見せたが、すぐに少女はベッドへちょこちょこと駆け寄った。しかしベッドには入らず、床に貼り付き、ベッドの下に手を差し込んでごそごそと探っている。やがて少女は、何かを取り出すとまたちょこちょこと彼の側に駆け寄り、その何かを差し出した。
 「はい、プレゼントよ」
 それは、小さな封筒だった。彼は目を丸くすると、
 「プレゼント?俺に!?」
 言って、しまったと思う。「俺」ではない。「わし」と言うべきだ。しかし、彼はそれほど驚いたのだ。サンタクロースにプレゼントとは!
 「うん、そうよ。おうちで開けてね」
 そう言うと少女は、真っ赤な顔をさらに真っ赤にしてにっこりと笑う。
 「あ・・・ああ、わかったよ。それじゃ、わしは帰るからね」
 封筒を受け取ると、彼は窓を開いた。もうこそこそする必要はなくなったから、堂々と帰ることにしたのだ。彼は窓の外に向って指を鳴らした。
 シャン、シャン、シャン・・・真っ暗な夜空に鈴の音を響かせながら、トナカイと橇がやってきた。やかましいだけなので普段は鳴らさないのだが、もうこうなったらサービスだ。彼は窓の向こうに到着した橇にひらりと飛び乗るとわざとらしく片手を挙げ、
 「メリークリスマス!」
 と少女に声をかけた。少女は窓から身を乗り出さんばかりにして言う。
 「サンタさん、来年も来てね!わたし、ぜったい待ってるよ!それで、今度はもっとたくさんおはなししてね」
 「ああ、そう・・・そうだね」
 そうして、彼は橇を出発させる。「そうだね」という彼の返事も、お愛想ではなかった。来年か、もっと先かはわからないが、いずれ彼はこの少女とまた会うことになるだろう。その時、一体自分はどうしたらいいのか。さっぱり見当が付かない。実のところ、それが今夜、彼がひどくうろたえた理由のひとつだった。別に始末書だけが恐かったわけではないのだ。
 とりあえず、いつもの店で酒でも飲みながら考えをまとめよう。橇を走らせながら、彼はひとつ、大きなため息をついた。

 そして彼は、この小さな店で半ば自棄になってグラスを呷っているのだった。
 ・・・まったく、何だってこんなことになっちまったんだろう。
 店に入って、何度目かの同じ呟き。
 ・・・もう引退寸前だったこの俺が、最後の最後で見られっちまうとは。サンタクロースなんて、どこでどう転ぶかわからんもんだ。
 また飲む。
 「とにかく、あっさり引退ってわけには、いかないみたいだよ。・・・なぁお師さん」
 宙を見つめながら、今度ははっきりと口に出す。そこにはいない誰かに、語りかけるように。
 「そういや、俺の時だって、きっかけは似たようなもんだったか。お師さんも、こんな気分だったのかよ」
 そう言いながら、彼は大昔のことを思い出し始めていた。彼がサンタクロースになるずっと前、昔むかしの出来事を。






 「だれ?サンタ?」
 ほとんど閉じかけていた目をぱっちりと開いて、まだ小さなガキだった俺は言った。声をかけられた男は、暗い子供部屋の中で足を一歩踏み出した姿勢のまま固まった。

 俺は、小学校に上がってもサンタを信じるガキだった。姿を見たことはなかったが、サンタはいると堅く信じ、いい子にしていればご褒美として毎年プレゼントを持ってきてくれるのだと思っていた。だが、それを学校の友達に話したら盛大に笑われた。友達は皆、サンタというのは本当は存在せず、夜中にこっそりプレゼントを置いてくれるのは父親と母親だと言うのだ。
 俺は小さな声を張り上げ、それは違うと精一杯主張した。サンタは必ずいるのだと。白い髭を生やした優しい小父さんは必ずいるのだと。今考えると、第一反抗期もとっくに過ぎ、ガキはガキなりに、世の中は自分の思い通りにはならないのだと感じ取っていたのだろう。だからどうしてもサンタの存在を信じたかったのだ。それくらいは自分の思っている通りであってもいいでしょ?クリスマスイブに、笑われ、からかわれて泣きながら家に帰った俺は、今夜こそサンタの正体を突き止めると決意した。
 その夜はサンタが現れるまで起きていることにした。都合良く今夜は両親とも家にいない。何の用事かは忘れたが、父も母も出かけなければならなくなったからだ。どうせ仕事か何かだったろう。両親は小さな会社を共に経営し、毎日忙しく働いていた。クリスマスなのにごめんねと二人はバツの悪そうな顔を見せ、その後急いで出掛けていったのを覚えている。親戚夫婦が泊まりに来て俺の面倒を見るという話もあったが、留守番とはどんなものか体験してみたかった俺は強く拒否した。
 だから、その夜は家に俺一人だった。遅くまで起きていても誰も文句は言わない。それに、もし力尽きて眠ってしまったとしても、プレゼントの有無でサンタの存在を確認できる。サンタの正体が両親だとしたら、誰もいない今夜、プレゼントを置いていく人間などサンタ以外にいないからだ。よく考えれば、サンタじゃなくてもプレゼントを届ける方法などいくらでもあったのだが、当時の俺はそこまで頭が回らなかった。
 とにかく俺は夜になると、布団の中にもぐって不寝番を開始した。そして彼は、現れたのだ。

 男の格好は間違いなく、あの赤いサンタ服だった。ただ、白い髭は生えていなかったし、思っていたよりかなり若かった。しかも、あろうことかサングラスをかけていた。そして第一声がこれだ。
 「よ、よう、起きとったんか!サンタやで!」
 俺の夢は粉々に打ち砕かれた。
 もちろん、今の俺ならその時の彼の気持ちはよく分かる。思いがけず子供に目撃され、うろたえ、思わず口をついて出た言葉がそれだっただけだ。

 「ほんとにサンタさん!?ほんと!?」
 サンタに会えた喜びと、イメージとのギャップから受けた驚きで頭が混乱していたが、とにかく俺はそう言った。サンタは引きつった表情を笑顔のオブラートで必死に包みつつ言う。
 「そ、そうや・・・だ!メリークリスマス!」
 「サンタ・・・」
 「とにかく、プレゼント持って来たで・・・よ。ほい!」
 そう言ってサンタは俺にプレゼントを渡した。これももう忘れたが、多分何かのおもちゃだった。俺は歓声を上げ、プレゼントを開いた。
 「ほな・・・それじゃ、ワシャ・・・わしはもう行くで・・・ぞ!メリークリスマス!・・・ああ、始末書や」
 大阪弁を隠そうとぎこちなく喋りながら、サンタは俺に背中を向けかけた。だが、その時俺はこう言ったのだ。
 「もう行っちゃうの?それに、なんかおじさん、サンタらしくないねー」
 サンタの動きが止まった。
 「な、何やて!ちょお待ちぃ!」
 サンタは俺の言葉にカチンと来たらしい。この時の気持ちも、今の俺なら分かる。子供に姿を見られ、さらにその子供に「サンタらしくない」と言われてしまったのだ。サンタクロースなら誰でもカチンと来る。
 しかし小さな俺は容赦なく言った。
 「だって、おヒゲ生えてないし、へんなメガネかけてるし、ことばもへんだよー」
 サンタはほとんど聞き取れないくらいの小さな声でこのクソガキと呟くと、口元だけ笑った顔で言った。
 「なぁ、サンタにもいろいろおるねんで?分かるやろ?にいちゃんも・・・そうやお前、さっきオッサン言うたな!ワシはにいちゃんや、にいちゃんやで、覚えときや!まぁとにかくや、サンタにもいろいろおるねん。にいちゃんもサンタっちゅうわけや」
 俺はその時、明らかに不服そうな顔をしたと思う。
 「あ〜、どうしたらええねん・・・このままやったら悔しゅうて帰られへん。姿見られた上に、子供にサンタかどうか疑われたままなんて冗談やないで・・・サンタの沽券に関わるわ。しかも大阪弁が変やなんて、ワシ大阪出身なだけやっちゅうねん」
 サンタはぶつぶつと何か呟いていたが、俺に向き直ると言った。
 「なぁ、どうしたら信じてくれる?」
 そんなこと自分に聞かれても困ると俺は思ったが、その瞬間、いいアイデアがひらめいた。
 「そうだ!サンタならそりに乗っけてよ!トナカイさんのそり、持ってるでしょ?」
 サンタは少しの間考え込むようだったが、やがてどうにでもなれという風に言った。
 「よっしゃ!ホンマやったら絶対禁止やけど、もうええわい!橇に乗せたる!それで信じるな?」
 「うん!」

 その後の体験は、本当に最高だった。サンタは指を鳴らしてトナカイと橇を呼ぶと、俺を乗せてくれた。夜空を斬り裂き、高らかに鈴を鳴らして空を駆けるトナカイ。眼下に広がる山や街が、近付いては後ろに向かって飛んで行く。冷たい風がひっきりなしに顔に当たったが、俺は寒さなど全く感じなかった。
 やがてサンタは少し得意そうに言った。
 「これでワシがサンタやって信じたか?」
 「うん、すごいやサンタさん!もうカンペキに信じたよ!」
 「そら良かったわ。ええか、さっきも言うたけどな、サンタにもいろいろおるんや。サンタっちゅうより他にないようなヒゲの爺さんもおるしな、俺みたいな若いサンタもおる。中年のサンタもおるし、女のサンタかておるんやぞ」
 「ふうん、そうなんだ!」
 「このサングラスもな、確かにサンタ服には合うてへん。コーデネートがなってないっちゅうかな。でも、これは俺のファッションなんや。いろいろなんや」
 この橇に乗ってしまったら、もう何を言われても納得するしかなかった。サンタにもいろいろいるのだ。俺は一つ思い付いて言った。
 「いろいろなんだー。それなら、ぼくもサンタになれるかな?こんなそりにのって、プレゼントを配ってみたいよ」
 サンタになる。これはなかなか素敵な思い付きだ。
 「ほほう」
 サンタはちょっと感心したようにこちらを向く。
 「お前、サンタになりたいか?」
 「うん!」
 「ははは。そうか。でもそんなに急いで決めることあらへん。お前の人生、まだまだ始まったばっかりや。どんな心境の変化があるかわからんしな」
 ちょっと思い付いて口にしただけの言葉が、案外真面目に解釈されているので、俺は少し驚いていた。シンキョーノヘンカなどという聞いたことのない言葉まで飛び出している。 サンタは続けた。
 「そうやなぁ、お前がもしもホンマにサンタになりたいなぁ思う時が来たら、声をかけに来る。それまではサンタ見習いや。ワシの弟子ちゅうことにしとこう」
 「ほんと!?やった!ありがとうサンタさん!」
 サンタは苦笑する。
 「そのサンタさんちゅうのは何やむずがゆいわ。もうお前はワシの弟子やから、そうやな・・・師匠、いや、お師さんと呼べ!」
 「はい、お師さん!」
 それからサンタは、かけていたサングラスを頭の上にずらした。現れた優しい目で俺の目をしっかりと見ると、サンタはこう言った。
 「ええか、ワシがサンタやからこう言うんやないぞ。サンタクロースの姿を目撃するっちゅうのはな、ホンマに凄いことや。ほとんどないことなんや。お前がこの先サンタになるにしろならんにしろ、そのままのお前でおることや。ねじくれたり、ひん曲がったりしたらあかん。そのままのお前で、でっかくなれ。ええか。約束や。師匠から弟子への、最初の教えや」
 自分はそんなに凄いのかと少々どぎまぎしながらも、極めて真剣な様子のサンタに対して俺ははっきりと返事をした。
 「はい、お師さん!」
 サンタはにっこりと笑うと、サングラスをかけ直した。その後、サンタは俺を家まで送り届けると、また橇に乗って飛び去った。

 これが、お師さんと俺の最初の出会いだ。





 翌年、お師さんは俺の前に姿を見せなかった。その翌年も、その翌年も。しかし、プレゼントだけはクリスマスの朝にきちんと置いてあった。それは必ず、俺の希望を見事に叶えたものだったが、両親が置いてくれたのかお師さんが置いていったのかは判然としなかった。
 時が経ち、そのプレゼントもやがて置かれなくなった。お師さんと両親のどちらが置いていたにしろ、もうクリスマス・イブの夜に胸をわくわくさせながらプレゼントを待つ年ではなくなったということなのだと俺は解釈した。
 夢のような小学生時代が過ぎ、音を立てて爆ぜるような中学生時代が過ぎ、激しく明滅するような高校時代が過ぎ、凪いだ内海のような大学時代が過ぎ去ったが、それでも俺は、あの夜のことを夢だと思うようなことは決してしなかった。お師さんは間違いなくいて、俺はサンタの弟子なのだという思いは、俺を強く支えてくれたからだ。何より、橇に乗って風を斬ったあの感触を忘れるはずがなかった。ねじくれるな、ひん曲がるなというお師さんの教えを、俺は忠実に守ろうとしていた。

 大学を卒業して俺は、大規模ではないが堅実で評判のいい会社に勤めた。時に取引先に頭を下げ、時に理不尽な注文に憤り、時に同僚達と飲み騒いで、結構楽しくやっていた。そして、そんな生活の中で一人の女と知り合った。器量はそこそこだったが、芯が強く、頭も良く、尊敬できる女だった。共に笑い合い、時には深刻な喧嘩もしたが、その女はやがて俺の妻になった。妻との間には、息子をひとり授かり、俺は小さな一戸建てをローンを組んで購入した。

 もちろんその間も、俺はお師さんのことを忘れてはいなかった。だが、あの時に熱望したサンタへの道にこだわる気はなくなっていた。心境の変化というやつだ。それにお師さんはあれ以来、俺の前に全く姿を現さない。息子の前にも姿を現した様子はなく、プレゼントを夜中にこっそり置いてやるのは俺達両親の役割だった。サンタがプレゼントを置いていく子供というのは、何か特別な条件があるのかもしれないなと俺は思った。どうやらあの夜は、俺の人生の中で最もエキサイティングな一夜だったということになりそうだった。
 幸せという得体の知れない言葉に振り回されるのは好きじゃないが、あの頃の俺はやっぱり幸せだったのかと思う。いいことより嫌なことの方が多かったが、仕事はそこそこ順調だった。妻ともうまくやっていたし、息子は俺を慕ってくれていた。だが、そんな穏やかな時代は、唐突に終わった。

 一緒に横断歩道を渡ろうとしていた妻と息子が、左折してきた大型トラックに巻き込まれ、あっけなく逝った。クリスマスの一週間前だった。

 涙すら出てこなかった。
 人は、こんなにも簡単にいなくなってしまうものなのか。葬儀の日の火葬場で、二人が入っていった炉の扉をぼんやりと眺めながら、俺はそんなことを考えていた。
 それからの俺は酷かった。突然目の前から全てが消え去ったのだ。誰に怒りをぶつければいい?トラックの運転手?それとも運送会社?トラックを作っている会社?行政か?それともこの世の全てを呪えばいいのか。
 思考は堂々巡りするが、最後にはその尖端が俺の胸に突き刺さってくる。結局俺なのだ。どんな言い訳をしたって、誰を責めたって、ふたりを守れなかったのは俺なのだ。あの朝、出かける前にひとこと車には気をつけろと言っていれば、結果は違っていたかもしれない。前の週末に俺がきちんと買い物にでも付き合ってやっていれば、ふたりは外出しなかったかもしれない。そんなどうにもならないことをいつまでも考え続け、交互に襲ってくる悲しさと虚ろさに身をまかせながら、やがて俺は木偶人形のようにリビングのソファに腰掛けているだけの存在になった。酒でも飲んだくれて酔っぱらえば少しはマシかと思ったが、いくら飲んでも吐いてしまう。酔っぱらって憂さを晴らせるうちはまだ大丈夫なのだと俺は気付いた。腹も減ってこなかった。何も信じられなかった。自分すら。
 そのまま一週間ほどが経ち、荒れ果てた家の中で、このままだと死んじまうなと、俺は他人事のように考えていた。それならそれでいい。だが、その前にもう一度だけ息子の部屋を見ようと思った。もう真夜中も過ぎたようだったが、真っ暗なリビングで俺はのろのろと立ち上がり、階段を昇って、主のない息子の部屋の扉を開いた。

 そこに、彼はいた。
 青い月明かりに照らされた赤い服が、窓枠に腰掛けている。
 「よう、起きたか。サンタやで」
 こちらを向いてほんの少しだけ口の端を上げてみせたのは、あの懐かしいサングラスだった。

 その瞬間、俺の中に甦ってきたのはあの夜のことだった。鳴り響く鈴の音。夜空を駆けるトナカイ。そして、俺を真っ直ぐに見つめたあの優しい目。
 夢だったとは思わない。忘れてもいない。だが、あれ以来一度も姿を現さなかったお師さんが実際に目の前にいることが、幻のようにも思えた。・・・一体、何故?
 「お師さん、俺・・・」
 「わかっとる。言わんでええ」
 お師さんはそう言った。それで俺は、お師さんがここにいる意味を理解した。
 知っているのだ。だからお師さんは来てくれた。打ちのめされ、ゆっくりと朽ち果てるのみになってしまった俺に、全てを捨てるにはまだ早いと伝えに来てくれたのだ。俺は胸に小さな灯りが点ったような気がした。そうだ、俺にはまだ、信じられるものが残っていたじゃないか。目をぱっちりと開いて頑張ったあの夜。橇に乗せてくれたサンタクロース。俺のお師さん。やはりいた。そして来てくれた。
 俺は泣いた。まるで出てこなかった涙が、次から次へと溢れてきた。
 そういえば今日は、クリスマスだ。





 落ち着いてから、俺はあらためてお師さんの顔を見た。少し皺が増えていただけで、あとは昔とほとんど変わっていなかった。サングラスもそのままだ。
 「お師さん、変わんないね」
 俺が言うと、お師さんは苦笑した。
 「そうかぁ?サンタいうても、別に長命なわけでもないしな。普通に歳とっとるわ。最近は腰が痛うてかなわん」
 腰痛のサンタか。俺もつられて笑った。久しぶりの笑いだった。
 「お前こそ変わってへん。なりは大人になったが、ねじくれず、ひん曲がらず、ようここまで頑張ってきたな」
 続けてお師さんが発した言葉は、俺にとって本当に意外だった。俺が変わっていない?俺は、俺は、
 「そんなわけはないよ。俺はお師さんがあの時言ったようには、なっちゃいない。今度のことだって、何も、誰も信じられないでいた。駄目だったんだ。自分が情けなくて仕方なかった。だって・・・」
 妻と息子を守ることができなかった。
 だが、続かなくなった俺の言葉の先を知っているように、お師さんは言った。
 「いや、変わってない。ねじくれず、ひん曲がらずや」
 そんなお師さんの言葉は、俺にとって闇に差す光のようなものだった。嬉しさからか、安堵からか、また涙が出そうになる。
 お師さんは俺に向かって微笑み、続ける。
 「お前は大丈夫や。自棄になってアホなことを考えるもんやない。しばらく何も食っとらんようやな。とにかくメシを食え。何か飲め。元気を出すんや」
 窓枠に腰掛けたままだったお師さんが身を起す。
 「ああ、でもいきなりがっついたらあかんぞ。そんなよれよれの状態で食い過ぎたら腹壊すからな。粥でも作ってゆっくり食え。冷たい水もあかん。ぬるま湯にしとけ」
 お師さんは片手を挙げた。ああ、トナカイを呼ぶために指を鳴らすのだ。
 「今日は仕事帰りにちょっと寄ってみたんやけどな。ワシはぼちぼち行くわ。達者でやれよ。ええか、何か食うんやで」
 お師さんが行ってしまう。そんな、まだ早すぎるよ。来たばっかりじゃないか。まだ俺は独りぽっちには堪えられそうもない。行かないでくれ、もう少しいてくれ。そう思ったら、口が勝手にお師さんを呼んでいた。
 「お師さん!」
 その時の俺といったら、まるで捨てられた子犬のような目をしていただろう。みっともないと分かっていても、独りになることが恐くて仕方なかった。
 しばらくそのままじっとしていたが、やはてお師さんは挙げていた手を下ろした。小さく息を吐くと、参ったなとでも言いたげそうにこちらを見る。どうしようか迷っているようでもあった。
 だがやがて、その迷いを断ち切るようにお師さんは口を開いた。
 「お前、サンタになるか?」
 突然の言葉にどう反応していいか分からず、俺はそのまま突っ立っていた。





 それからお師さんが話してくれたことは、本当に驚くべきことだった。
 「ええか、サンタクロースちゅうのはな、何となくサンタクロースやっとるわけやない。サンタクロースの組織があるんや」
 「は?」
 俺は思わず聞き返してしまった。お師さんは片方の眉を上げ、まあ仕方のない反応だという表情をした。
 お師さんは開いていた窓を閉め、部屋の中に入って来る。
 「けったいな組織やけどな。ちょっと長い話になるが、聞いてくれ」
 お師さんはそう言うと、サンタクロースの誕生にまつわる話を始めた。

 ことは二千年近く前のアナトリアに遡る。アナトリアとは現在のトルコにあたる土地だ。そこに現れた聖ニコラスという人物が話のカギを握る。
 聖ニコラスは、現在ではサンタクロースの由来の一つとなった人物として知られている。そもそもサンタクロースという名称自体、セント・ニコラスの名が変化して定着したものだ。
 その聖ニコラスは、アナトリアのミラの司教であった。裕福な家に生まれ、神学を修めたと言われている。「聖」と言うからにはキリスト教の聖人であり、数多くの伝承を現在に残している。
 例えば有名なものはこれだ。ある時、ニコラスが町を歩いていると、一軒の家から悲しそうな泣き声が聞こえて来た。その家には三人の娘があったが、貧困のために結婚の資金も無く、どうやら身を売る寸前にまで追い込まれているらしい。泣き声は、その事を悲しんだ泣き声であったのだ。それを救ってやりたいと思ったニコラスは、毎夜こっそりと金貨の入った袋をその家に投げ入れ、そのお陰で娘らは身を売らずに済んだという。
 奇跡譚も数々残っている。航海中に嵐に遭遇した船があった。絶望した船員たちは、聖人として有名であったニコラスの名を呼び、救けを乞うた。そうしたら、その場には当然いないはずのニコラスが現れ、船を救って去ったという。故に、聖ニコラスは船乗りの守護聖人ともされる。
 このようなことが実際にあったのかは定かではないが、とにかく噂は噂を呼び、聖ニコラスは人々の尊敬を集めた。彼の死後には、その命日である十二月六日を聖ニコラスの祝日とし、その日の未明に人知れず贈り物をする習慣も起こった。そして、聖ニコラスの伝承と、キリスト教以前の習俗、さらにはキリストの降誕祭など、さまざまな要因が結合し、現在のクリスマスやサンタクロースの土台が成立した。

 「まぁ、説はいろいろあって、こんなに単純なものやないらしいけど、一般に理解されるサンタクロースの起源ちゅうのはこんな感じや。しかしやな、実はこうやないんや」
 「こうじゃない?」
 「その聖ニコラスという人物が、ワシらの組織の創始者なんやな、これが。このことはもちろん一般に知られてへんけど、子供達に贈り物を始めたのんは、聖ニコラス自身なんや」

 聖ニコラスの作った組織は、始めは大きくはなかった。いや、それは組織ですらなく、ただ子供達を喜ばせたくて、年に一度、彼がささやかに贈り物を用意する、それだけのことであった。だが、聖ニコラスは、その伝承だけでも全く不思議としか言いようのない人物だが、実際には伝承よりもさらに想像を絶する力を備えていたのだという。彼はその力を用い、贈り物を贈る範囲を徐々に広げていった。

 「近隣の町や村はもちろんのこと、かなり遠くにも届けたらしいわ。その不思議な力を使ってな」
 お師さんはそう言う。

 なぜ聖ニコラスが子供達に贈り物をするようになったのか。その手がかりとなる伝承が存在する。飢饉の時、肉不足を補うため、ある宿屋の主人が三人の子供を殺し、身体をバラバラに切断して塩漬けにしたというものだ。これは一般にも知られているニコラス伝承であるが、このような事件が実際にあったことは組織の古い記録でも確認されているらしい。これは非常にショッキングなエピソードであり、もちろん聖ニコラスにとってもそうであったろう。一般の伝承では、聖ニコラスの祝福で子供達は生き返った事になっているが、いかな聖人でも、それが可能だったとは考えにくい。だが、そんな理不尽な世界にある子供達を、少しでも元気づけたいと聖ニコラスは思ったであろう。だから、彼は人知れず子供達に贈り物を贈る事にしたのだ。年に一度の贈り物が子供達の支えになってくれればそれで良いという思いが、聖ニコラスにはあったはずだ。
 彼の行為に共鳴する人物も多く集まってそれは組織となり、贈り物は続けられた。やがて聖ニコラスは死んだが、彼の持っていた不思議な力を使って、残された人々は贈り物を続けたのだ。

 「聖ニコラスは、物を空中に浮かせるとか、見えへん場所におる人の様子を探るとか、そういうのは朝飯前やったみたいや。そういうのが、聖ニコラスの伝承のもとになったんやろな。ワシらが空飛ぶ橇に乗って人知れず街を回れることなんかも、聖ニコラスが遺した遺産のお陰なんや」
 「しかし・・・その聖ニコラスって人物は何者なんだろう?不思議な力って何なんだ」
 「それが、詳しい事は分かってへんのや。ただワシらは、聖ニコラスの思いと、その不思議な力を受け継いどるだけ。彼の不思議な力はな、アナトリアの総本部に今もある『奇跡の部屋』に集約されとる」
 「奇跡の部屋?」
 新しい言葉が出て来た。聖ニコラスの不思議な力とは、奇跡のような、文字どおり不思議としか言いようのないものなのか?
 「昔の人は訳も分からんと、とにかく奇跡やから奇跡の部屋と呼んどったみたいやな。とは言え、今でもその部屋のことはよく分からんらしい」
 「そんな・・・」
 「もちろん、全く何も分からんわけやない。ワシも実際に見たわけやないけど、『奇跡の部屋』には何かの装置がいっぱい詰まっとるらしいわ」
 「そ、装置!?」
 「そうや。例えば飛行能力を与える装置。ワシらのトナカイやら橇やらはその装置の力で飛行できるようになっとる。他にも装置はいろいろあって、その全容は未だに解明されとらん」
 驚きの余り口もきけない俺には構わず、お師さんは続ける。
 「ウチの科学部門が言うにはな、『奇跡の部屋』はオーバーテクノロジーの塊らしいということなんや。その、飛行能力を生む装置もな、何やよく知らんが、正物質と負物質の干渉とかいうもんで説明できるそうな。しかし、分かるのはその辺までやな。今の技術では『奇跡の部屋』に切り込んでいくことはまず無理や。仮に分解して分析しても、組み直しは出来んやろう。この事から組織内では、聖ニコラスは今現在よりもずっと未来から来た未来人やったという説まである。案外ありそうなことやけどな。まぁ、創始者の話はこれくらいでええやろ。いくら考えてもしゃあない部分もある」

 とにかく、子供達への贈り物は、時代を経てアナトリアからヨーロッパの全域にまで広がっていった。やがて歴史が大航海の時代に突入し、世界は徐々に狭くなる。活動の範囲も更に拡がり、組織は近代化の必要に迫られた。それまではかなり融通の利くところもあって、構成員は土地々々の習慣に従った形で贈り物を運んだが、それでは立ち行かなくなってきたのだ。聖ニコラスの命日などに行われていた贈り物が近代に入ってクリスマスに一本化されたのも、運び手の名ががサンタクロースに統一されたのも、そこに理由があった。
 こうして組織は様々に変遷したが、聖ニコラスの思いは生き続けたということだ。





 「だから、クリスマスにサンタクロースがプレゼントを届けるちゅう風になったんも、そんな昔のことやない。せいぜい、ここ百年くらいのことや。ローカルな習俗に過ぎんかった『秘密の贈り物』が、近代資本主義の発達に従い、脱宗教化して世界中へ爆発的に普及を遂げたってのはあくまで表の見方や。ワシらの活動を、少しでも世界中の子供達に広めたかったから、今のようなサンタクロースのイメージを組織は選択してきたんや。口コミはもちろん、広告やら文学やらも使ってな。赤い服にトナカイの橇いうサンタのアイテムも、そういう風にして成立したわけや」
 お師さんはそこで言葉を切った。俺は呆けたように言う。
 「サンタクロースの・・・組織か。でも・・・まさか・・・本当にそんな活動をしてるっていうのか?そうだ、俺の時はお師さんが来たけれど、息子のところに来た様子はなかった。プレゼントを枕元に置いていたのは俺とあいつ・・・」
 だが、俺はそこで何も言えなくなった。辛いことを思い出したからだ。お師さんは困った顔をしながら言った。
 「そこらへんはな、トリックちゅうものがあるのやけど・・・まぁ、ええやろ。今、昔のことを思い出すのはお前も辛いがな」
 「いや、聞くよ。聞きたい。ここまで聞いてきて途中で止めるのは無理だ」
 お師さんはふうとため息をつくと、少し間を置いてから話し始めた。
 「ワシらサンタクロースの仕事はな、クリスマスにプレゼントを届けるのがメインちゅうわけやないんや。メインの仕事はな、いわば調査業務なんや」
 「調査?」
 「そう、調査や。クリスマスに一斉にプレゼントを届けまくるのは、もちろんそれが出来たらいいんやけど、人手の面でも資金面でも無理な話や。だからワシらは、一年を通して、どこの子供がどんなプレゼントを欲しがっとるかとか、そんなことを調査して、プレゼントの流れを調整する」
 「つまりプレゼントは届けないということ?」
 「一部の場合を除いてはな。例えばお前さんの家の場合はこうや。たとえば息子さんがあるプレゼントを欲しがって・・・」
 そこでお師さんは黙ってしまった。俺は言う。
 「気にしないでいいさ。先を続けてくれよ」
 「・・・息子さんがあるプレゼントを欲しがったとする。でもな、実際のところ 親の選ぶプレゼントと、その希望が一致するかというと、一致せん場合がある。 そこでワシらの登場や。調査結果に従い、子供の希望が叶うように、こっそりとアシストする」
 「アシスト?でも、俺の場合は確かに自分達で息子のプレゼントを用意したよ。間違いない」
 「ふむ、どういう具合に?」
 「そりゃ、俺は会社があるから、あいつがデパートに行って・・・」
 「それ、確認したか?領収書あるか?」
 「確認なんて・・・あっ!」
 お師さんは穏やかに笑った。
 「そうや、それがトリックや。きっと奥さんも、お前と同じように考えとったはずや。『あら、あの人、いつの間にプレゼントなんて用意したのかしら。結構手際がいいのね』。でも、実はそのプレゼントはワシらがこっそりと用意して、事前にお前の家に置いていったものちゅうわけや。こんな感じのトリックをいろいろと巡らして、プレゼントがうまく流れるようにするのが、ワシらの仕事や」
 「そんなことが可能なのか?」
 「聖ニコラスの遺した『奇跡の部屋』にはそんなことを可能にする手段もある。それに、全部が全部調整しとるわけやない。その必要のない家も結構あるしな。ただ・・・」
 「ただ?」
 「いろんな事情で未だに手が回らん土地や子供らもおる。それはこっちも辛いところや」
 そう言うと、お師さんは少しだけ哀しそうな表情をみせる。
 「でも、そんな子供達も、サンタクロースそのものの存在自体で、いくらかは支えられているはずだ。たとえプレゼントが無くても、それはきっとそうだよ」
 「おおきに。でも、お前に慰められるようになるとは、ワシもヤキが回ったかいな」
 お師さんは少し調子を取り戻したようだったから、俺はもう一つ、どうしても気になっていた疑問を口にした。
 「それじゃ、俺の時は?俺が小さかった時には、わざわざお師さんが俺の家に来て、プレゼントを置いていった。あれはどういうことなんだ?」
 「さっき言うたな。『一部の場合を除いて』プレゼントを届けへん、て。あの時のお前は、その一部の場合やった。つまり、プレゼントしてくれる相手がおらへんという場合や」
 そういえば、あの日は家に両親がいなかった。
 「両親がおらんとか、おってもプレゼントを忘れてる場合かてある。そういう子供には、ワシらが直接プレゼントを届ける」
 「それで、俺がお師さんの姿を見ることが出来たわけか」
 「そういうこと。でも、あの時は焦ったで。サンタクロースが子供に姿を見られるのは御法度なんや。ほうぼうでワシらが姿を見せたりしたら、世の中がおかしくなるからな」
 そこでお師さんは少し真剣な表情になった。
 「そしてそれがお前に、サンタになるかって言うたことにもつながってくる」
 どうも話が核心に迫ってきたようだが、俺にはどこがどうつながっているのか分からない。
 「今の話で、子供がサンタクロースを目撃するということがどんなに難しいかわかるやろ。そもそもサンタクロースが直接プレゼントを届けに来る子供自体が少数や。さらに、夜中もずっと起きとかないかん。退屈や睡魔と格闘するんや。子供にとって生半可なことやないで。それに、ワシらかて細心の注意を払って子供に見つからんようにしとる。そういう障害を乗り越えてサンタクロースと出会うんはな、体力はもちろんのこと、思考力、実行力、運、それに何より、サンタクロースを信じ抜くことの出来る優しく強い心を備えた、ホンマに凄い子供なんや」
 そういえば初めてお師さんと出会った時、お師さんは俺のことを凄いと言った。そのままの自分でいろ、と。あれはそういう意味だったのか。
 「そしてそれらは、とりもなおさずサンタクロースの資質でもある」

 お師さんはなおも続ける。
 「実を言うとな、子供に見られたサンタはその子供をずっと見守っていくいう、まあ、習わしのようなもんがあるのや。時々それとなく見に行って、元気でやっとるかなぁ、なんて確認するくらいやけどな。だから今回も、お前のことに気付くことができたのや」
 弟子だと言ってくれたのはそういうことだったのだ。しかし俺は、お師さんが俺のことを気にしてくれていたことの方が嬉しかった。あれ以来、決して俺の前に姿を見せなかったお師さんだったが、信じていて良かった。俺は心からそう思った。
 「サンタの方が先に死んだら、まぁ大抵先に死ぬけどな、後輩達が後を引き継いで見守ってくれる。見守っとるうちにな、ああ、自分は昔サンタを見たな、なんて思い出しとるのに気付いたりする。まぁ大抵かなり時間が経ってからやな。そういう時期が来たら、ワシらの方からサンタとしてスカウトすることもある。多くのサンタクロースは、そうして誕生するんや」
 一息ついたお師さんは、苦笑しながら口を開いた。
 「けったいな組織やろ?その、オーバーテクノロジーの塊みたいなもん持って、えらい苦労して、やっとることは子供にプレゼントや。時々可笑しゅうてしゃあなくなる。世の中で有名になるわけでもない、莫大な富を得るわけでもないで。ただ、プレゼントや。全く、道楽者の集団やで」
 しかしそこで、お師さんの苦笑は穏やかな微笑に変わる。
 「でもな、ワシはそういうの、割と気に入っとんのや。子供達はワシらのことを待ってくれとる。胸をわくわくさせてな。そんなサンタクロースを信じた記憶がな、子供達が成長した時にわずかでも残っとったら、世の中ちょっとくらいはマシになるんちゃうかと、ワシは思うのや」

 そこまで聞き終わった時、俺の心はほとんど決まっていたと言っていい。俺は問うた。
 「お師さん・・・それなら俺は、俺はサンタクロースになれるのか?」
だが、お師さんは俺の問いに答える代わりにこう言った。
 「ほんまはな・・・ちょっと顔見せて、それで帰る積もりやった。でも、お前があんまり参っとるようやったからな、さっきはつい、サンタになるかなんて言うてしもた」
 「お師さん、俺は」
 お師さんは遮るように言う。
 「なぁ、別にサンタ見たから言うて、絶対にサンタにならないかんという訳やないねんで。お前はまだ若いやないか。サンタクロースになるのは大体が歳とってからなんや。人生の最後を、子供達のために使うんや言うて頑張っとる。サンタのイメージが白髭の老人いうんも、実際サンタの大半が年寄りやからやで。お前かて、急ぐ事ないやろ。ワシも今日は喋りすぎた。聞かんかったことにしてくれてええんや」
 お師さんは困り果てた顔をしている。だが俺はきっぱりと言った。
 「俺はサンタクロースになりたい。今の俺にはそれが一番いい気がするんだ」
 俺はお師さんの顔を真直ぐ見る。お師さんは大きくため息をつくと、やがて口を開いた。
 「なぁ、ちょっと外に出えへんか?お互い頭冷やしながら話そうやないか」
 別に即座にオーケーされると思っていたわけではないが、意外と言えば意外な誘いに俺は少々面喰らった。だが、断る理由も無い。俺達は表に出た。





 俺とお師さんは並んで歩く。外はまだ暗く、寒かった。車道の両端には街灯が点々と灯り、冷たく俺達を照らしている。お師さんはあの赤いサンタ服のままだ。俺はそれが気になって訊ねた。
 「なぁ、お師さん、さすがにそれじゃ目立たないか?」
 「しゃあないやろ。今この服しかあらへんねん。どうしようもない」
 「いや、そこは姿を消していくとか・・・」
 俺は冗談の積もりで言った。
 「それでもええけど、あんまり使いとうない」
 「は?本当にそんなこと出来るのか!?」
 お師さんは少し呆れ顔になる。
 「お前、自分で言うといてけったいな奴っちゃのう。姿・気配から足音まで完全に消す方法もあるけど、あれしんどいねん。機械回すのにエネルギー食うし、こっちの身体にも負担がかかる。よほどの必要な時以外はそんな気軽に使われへんのや。まぁ、簡易的に姿を隠せる光学迷彩技術の開発は自前で進めてるらしいけどな」
 「はあ・・・」
 俺はため息をついた。サンタになら可能と一般的に思われていることは大抵出来てしまうらしい。
 「大体、そんなんばっかり使うてたら、サンタとしては面白ないやろ。やっぱこう、ちゃんとサンタの格好してやな、見られるか見られへんかギリギリのところで勝負するのが、サンタ気質ってもんやで。ワシャ光学迷彩技術が完成しても、よっぽどのことがない限り使いたないな。それに」
 「それに?」
 「こっちとしても、イキのいいガキがワシらのこと目撃してくれるの期待しとるとこ、あるのや。大きな声では言えんけどな」
 そう言ってお師さんはにやりと笑う。
 「まあ、お前がそんな心配することないがな。それに、誰かに見られても、今日はクリスマスやねんから、何かのバイトの帰りやとでも思うに決まっとるで」
 「そうか、それもそうだな」
 「そうや。大体ここ住宅街やないか。こんな時間にふらふらしとる人間もおらんわな」
 そういえば、今まで歩いてきて誰ともすれ違っていない。それどころか、人の姿すら見かけていなかった。心配することもなかったか。

 だが、会話はそこで途切れた。どこか気まずいとも感じる空気が二人の間に流れ始める。それでも沈黙は続いた。
 かなり歩いてから、お師さんの方から口を開いた。
 「大丈夫か?」
 「え?」
 「しばらく、ろくに食っとらへんのやろ?辛くないか?」
 そういえばそうだ、と今更のように俺は思った。
 「ああ、大丈夫だよ。食ってないこと自体忘れてた」
 「なんや、妙なやっちゃのう」
 お師さんは少し笑った。それから少し間を開けて、言った。
 「なぁ、気は変わらんか?ほんまにサンタになる積もりか?」
 「ああ、変わらないよ。サンタクロースになりたい」
 「そうか」
 お師さんは笑いも怒りもしない。
 俺達はまた少しの間歩き、途中にあった公園へ入った。

 公園にはもちろん誰もいなかった。シートのかかった小さな砂場がひとつと、小さな滑り台がひとつ。道にはあった街灯も、猫の額ほどの小さな公園には設置されておらず、中はほとんど真っ暗だった。月はほとんど沈みかけており、顔を上げると星がよく見える。俺達は公園と道路を隔てるフェンスに寄り掛かって話した。
 「ちょっとでも時間を置いたら、多少は考え直してくれるかと思ったんやがな・・・やっぱりあかんか」
 お師さんは少し沈んだ声で言い、さらに続ける。
 「お前がサンタになるのは、ほんまに賛成出来んのや」
 ここまでのお師さんを見ていたら、そういう言葉は充分に予想出来た。が、実際にはっきり言われると、やはり少々辛い。
 「親しい人、例えば伴侶を亡くしたことがきっかけとなってサンタクロースになるいう奴は、確かに珍しくないのや。いや、ほとんどのサンタクロースがそうやと言っても大袈裟やないくらいや。サンタは哀しみを抱えながら、子供達に喜びを運んでいるようなものや」
 何と言っていいのかも分からなかったが、俺は何とか言葉を絞り出した。
 「それなら、俺も同じことじゃないか。俺は、俺は・・・大切な人を守れなかった・・・!それが悔しくて仕方がないんだ。このまま元の暮らしに戻れと言われても、もう堪えられやしない!」
 お師さんの細かい表情は暗くてよく見えないが、それでも本当に辛そうにしているのがよく分かった。
 「それはそうかも知れん・・・でもな、お前は若すぎる。さっきも言うたが、サンタクロースになる人間のほとんどは高齢なんや。いや、高齢やからサンタになるようなものやねん。せやからこそ、残された時間をサンタクロースとして過ごそうと思う。それが彼らを救けることにもなっとるんや。でも、お前の場合は・・・やはり若すぎる。その点において全くのレア・ケースや。お前は自分の力で立ち上がれる年齢で、まだまだ様々な人生を選び取ることの出来る年齢やろ?急ぐことはない。ワシはそう思う」
 「それを言うなら・・・お師さんだって若いじゃないか・・・」
 お師さんは少し言葉に詰まる。
 「・・・ワシなんぞ参考にせんでもええわい」
 また沈黙が訪れる。

 空気はきんと冷え切ってゆらりともしなかった。長い時間が経ったように思えた。だが、実際はごくわずかな時間しか経っていなかったろう。お師さんが口を開く。何気ない言葉だった。
 「なかなか見事なもんやないか、ここの星空」
 「ああ。中心から少し離れた住宅街だからな。山奥ほどじゃないが、冬なんかだと結構見えるんだよ」
 それから少しの間、二人で空を眺めた。降るような、とまではいかないが綺麗な星空が拡がっている。
 お師さんは静かに言った。
 「お前と初めて会うた時も、こんな感じやったかなぁ」
 「さあ。俺はサンタと会えたってだけで舞い上がってたから、他のことは全然憶えてないな」
 初めてお師さんと会った時、か。懐かしい。思わず顔が緩む。あれから俺は、何度サンタクロースのことを、お師さんのことを思ったろう。
 一心にサンタクロースを信じていたガキの頃。何かしくじって両親に叱られた時。仲間と喧嘩をして顔を腫らした時。サンタクロースは、俺のお師さんは俺の心の奥の深いところから、いつも頑張れと声をかけてくれていた。それは歳をとって、自分の家庭を持ってからも変わらなかったことだ。色々なことで落ち込んだが、その度に俺は立ち上がれた。そう、今回も。
 辛いことが多い世の中だ。理不尽に振り回されてばかりだ。何より、自分自身こそが一番理不尽で、時々本当に嫌になる。だが、それでも、サンタクロースがいた。いくら辛くても、サンタクロースが橇に乗って、子供達にプレゼントを配るような、そんな素敵なことが、世の中にはある。これが、いつだって俺には大きな救いだったのだ。他の奴らだって、子供の頃夢見たサンタクロースを、いや、それじゃなくてもいい、何か素敵なことを、たった一つでも信じることができるから、ぎりぎりの線で上手くやって来られているんじゃないだろうか。
 お師さんは自分達をけったいだと言った。だが、そんなけったいなものが一つくらい、世の中にあってもいい。そして、そんなけったいところで頑張るのも、悪くない。悪くないと思うんだ。
 俺は言った。
 「今まで、ずっとサンタクロースに支えられてきた。ガキの時も、成長してからも・・・今回も。どんなにボロボロになっても、サンタが、お師さんがいたからやってくることができた。そんな気がするんだ」
 お師さんの反応は無い。
 「・・・そろそろ、恩返しがしたいんだよ。お師さん、サンタを信じた子供達が大人になったら、ちょっとは世の中がマシになるかもしれないって言ったじゃないか。俺にもその手助けをさせてくれ」
 お師さんは、まだ何も言わない。
 「小さい頃にサンタを見た人間を時期が来たらスカウトする事がある、とも言ってただろ。それなら・・・俺には今がその時期だ」
 お師さんはやっと口を開いた。
 「・・・サンタクロースの仕事は楽なもんやない。途中で辞めるのは自由やけどな、初めからそれやったら上手く行くわけもないし、お前にとってもよくないやろ。そんな積もりやったら、ほんまに止めといた方がええぞ」
 静かに、だが明瞭にお師さんは言う。
 「そんな積もりはないよ。大丈夫だ」
 俺が答えると、お師さんはさらに続けた。
 「それに、サンタクロース自体は世の人々に広く認知されとるけど、お前が個人として注目を浴びることは決してない。それがこの仕事の宿命なんや。若いお前がそんな状況の中で働かないかん。見知らぬ子供達のためにな」
 何かが引っ掛かった。俺はその引っ掛かりを形にしようと、慎重に言葉を選びながら答える。
 「それは違う。確かに子供達のために働くのがサンタクロースだ。だけど違うんだ」
 俺はお師さんの顔を見、大きく息を吸い込んできっぱりと言った。
 「俺は自分のためにサンタクロースをやる」
 それで俺は力が抜けたようになった。もう何も言うことは無い。お師さんの言葉を待つばかりだ。お師さんはしばらく黙っていたが、やがてふっと小さく息を吐くと言った。
 「お前には負けたわい」
 ガシャンと音を鳴らして、お師さんはフェンスから離れた。それから大きな声で言う。
 「お前、サンタになれ!」
 お師さんは、サングラスを頭に押し上げてにやりと笑った。何気なく住宅街の向こうを見たら、山際が少し白んできている。

 クリスマスの朝、こうして俺はサンタクロースになった。





 ・・・そうだった、そうだったな。
 今や彼の脳裏には、あの頃の記憶が鮮やかに蘇っていた。昔を思い出すことは最近少なくなっていたが、それでも一度考え出すと止まらない。最も辛かったあの時の無念さ。お師さんが来てくれた時の喜び。星空の下、歩いた道の感触。そして、ガシャンと鳴ったフェンスの音。
 そういやあの時、お師さんは言っていたっけ。

 サンタクロースは哀しみを抱えながら、喜びを運んでいる。

 あれからの彼は、まさにそんな感じだった。正式なサンタクロースになったからといって、急に辺りが輝いて見えるといったようなことは決して無く、辛い思いと闘いながら必死で仕事に打ち込んだ。だが、そんな辛さもいつしか別のものに変わり、彼は普通に泣いたり、怒ったり、笑ったりできるようになった。またしても彼は、サンタクロースという存在に救われたということだ。
 ・・・恩返しをするつもりだった。支えられてばかりだったから、今度は誰かを支えたいと思っていた。でも、やっぱりそうはならなかったみたいだ。
 彼は苦笑する。何で引退なんて考えるようになっていたのかと、今更のように思った。長い間トナカイに乗ったからという理由だけで、もう落ち着こうとしていた。忘れていたんだ。いや、思い出そうとしていなかった。サンタクロースになった目的なんて、ちっとも達成していないじゃないか。引退なんて撤回だ。身体が動かなくなるまで、トナカイに乗って乗って乗り続けてやるさ。そう、姿も見られちまったことだし・・・
 そこまで考えて、彼ははっとした。そうだ、俺は見られたんだった。この後、始末書だって書かなければならない。だが今の彼には、それすら楽しい作業のように思える。なんてことないさ。
 そして彼は、もう一つのことを思い出した。あの時、姿を見られた時に少女がくれた小さな封筒のことだった。服のポケットに捩じ込んであったそれを、彼は取り出した。封を切り、中身を取り出す。確かプレゼントだと言っていた。

 中から出てきたのは、一枚の紙。そこには色鉛筆でサンタクロースの似顔絵が描いてあった。立派な髭を生やして、赤い帽子を被ったサンタクロースだ。眼だけがやけに可愛らしい。顔の下には「サンタさん まいとしありがとう」というメッセージが書き込んであった。
 絵のサンタクロースは一般的なイメージ通りで、もちろん彼とは似ても似つかない。消しては何度も書き直したのだろう、紙にはところどころ皺が寄っている。メッセージの文字も覚えたてらしく、よろよろと頼り無かった。
 だが彼は、嬉しかった。信じてくれている。そう思えた。確かにこれは、サンタクロースへの大きなプレゼントだ。

 ・・・さっきは混乱したままさっさと出てきちまった。出来たら来年も顔を出して、あの子をトナカイの橇にでも乗せてやろうか。それで、君は凄い子なんだぜと言ってやるんだ。規則違反だけど、なぁに、構やしないさ。

 そんなことを考えながら、彼はゆっくりとグラスを傾けた。

(2002/12/20)



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